Column / 社長コラム 社長コラム

2020.02.01

レジェンド

尼崎青年会議所シニアクラブには、私が憧れる3人のレジェンドがいました。竹瀬元紀・鴻池祥肇・森本清という方々です。しかし、森本先輩を残し、一昨年末に鴻池先輩、昨年末に竹瀬先輩が亡くなってしまいました。奇しくも、おふたりの告別式は12月29日。毎年3人のレジェンドが集まる「鎖の会」という会の開催日でした。一昨年の鎖の会では、鴻池先輩を見送り、竹瀬・森本先輩と共に鴻池先輩のことを語り、昨年の鎖の会の日には竹瀬先輩を見送り、森本先輩と共に竹瀬先輩のことを語りました。森本先輩曰く「寂しがり屋の鴻池先輩が竹瀬先輩を呼びに来た。今は2人で年末にオレを呼びに来る相談してるわ」と笑えない冗談をおっしゃっていました。

レジェンド3人の共通点は心を鷲掴みにされるような素晴らしい挨拶をされるところ、義理・人情を大事にするところです。3人の出会いは尼崎青年会議所でした。最初に入会したのは竹瀬先輩。その数年後、鴻池先輩が入会してきます。竹瀬先輩曰く「鴻池という名前、早稲田大学弁論部という肩書き、それ以上に入会スピーチが素晴らしかった。竹瀬元紀は鴻池に惚れてしまったんや」と。酒を飲むといつも話されていました。その後、竹瀬先輩は「鴻池を会頭にする」という使命を心に誓い、二人三脚で日本青年会議所会頭の座を獲りにいくことになります。その数年後、森本先輩が入会。竹瀬先輩と同じ使命を誓い、鴻池先輩のセクレタリー(鞄持ち)をすることになります。


会頭への道は簡単なものではありませんでした。麻生太郎会頭年度に次年度井奥会頭が決定し、鴻池先輩は井奥会頭の元、副会頭となりました。当時、麻生会頭から「井奥の次は大阪と決まっているから、爪を伸ばすな」と釘を刺されました。尼崎に帰ると、当時の先輩方に「スポンサーである大阪に刃向かうなんてもっての外」と大反対されました。外からも内からも反対されましたが、竹瀬先輩は鴻池先輩を励まし、心を一つにしてきたメンバーを叱咤激励し、「鴻池を会頭にする」というブレそうになる念いを繋ぎました。そして、どうすれば道が繋がるかを考え戦略を練り、作戦を立て、行動に移していきます。作戦は、尼崎青年会議所メンバーが一丸となり会頭への気遣い・心遣いを全力ですることでした。井奥会頭はあまり多くのセクレタリーを連れて出てきていませんでした。井奥会頭は会議・懇親会が終わると、他の役員が銘々飲みに行く中、会頭職という立場柄一人でホテルへ帰ります。竹瀬先輩は、その頃を見計らって「尼崎の竹瀬です。鴻池に言われて電話させていただきました。お水はテーブルの上に置いてあります。他、何かご用はありませんか」と全国(京都会議、全国地区大会、東京正副会議・理事会など)を飛び回る全てのホテルで、これを繰り返しました。会頭から「タバコが欲しい」などと要望があれば「承知しました」とお持ちする。その時にかわす何気ない会話や、竹瀬先輩をはじめとする尼崎青年会議所メンバーの規律正しい立ち振る舞いに親近感を持っていただくようになりました。そして、井奥会頭は麻生直前会頭の言いつけを守らず鴻池先輩に会頭指名をすることになりました。晴れて会頭になることができたのは、勿論、鴻池先輩の人格・人柄や力量も大いにありますが、当時の尼崎青年会議所メンバーが一丸となった礼儀・規律・気遣い・心遣い・立ち振る舞いなどの賜物だったと思います。

私が尼崎青年会議所に入会した1989年には、3人のレジェンドは、すでに卒業されていましたが、「会頭への道」で培われた規律・礼儀・先輩を敬うといった所作は尼崎JC道となり色濃く残っていました。その中でも森本先輩の所作は伝説となっていました。鴻池先輩曰く「何千人もいる会場で会頭として挨拶することがある。そんな大きな会場でも森本は真っ直ぐにこちらを見ていてくれた。少しでも困ったことがあると、目と目で合図でき、それを察知して困りごとを解決してくれた。そして、何よりも森本の立ち姿は美しかった。本当に有難い存在やった」のだと。しかし、レジェンド2人が亡くなり、良き伝統が薄れているように感じています。私がシニアクラブの会長となり1年が経ち、色々な場所で挨拶する機会や出て行く機会が増えました。その都度、鴻池・竹瀬・森本先輩ならどういう挨拶をするのだろうか、どういった立ち振る舞いをするのだろうか、と行動の指針となっています。世間には生きているような、死んでいるような人が多い中、鴻池・竹瀬先輩は、死んでなお、私の心の中で輝いています。レジェンドが残してくれた良き伝統は簡単に手に入れることはできません。そして努力しなければ残せません。私の役目はこの良き伝統を未来にどう残すかだと考えています。

2020/02/01