Column / 社長コラム 社長コラム

2019.06.01

平成

新天皇が即位し、元号が「平成」より「令和」へ変わりました。生前退位ということで明るい雰囲気の中、数々の式典が執り行われました。いつも国民に寄り添い、国民のために祈って頂いた陛下、皇后には感謝しかありません。「天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした」という言葉に心震えました。明仁天皇、美智子皇后、今まで有り難うございました。

平成の約30年で日本の状況も大きく変化しました。平成元年、バブル景気で日経平均株価は38,915円最高値に達し、バブル崩壊やリーマン・ショックによる株価急落を経て長く低迷しました。平成21年最安値7,054円で底を打ち、平成24年大規模金融緩和や財政政策に支えられ徐々に持ち直し、平成終値は22,258円でした。元年当時、世界時価総額上位企業10社中8社が、1位NTT、2位住友銀行、3位日本興業銀行、4位第一勧業銀行など日本企業でした。それが現在は、1位マイクロソフト、2位アップル、3位アマゾン、4位グーグルなど10社中8社が米国企業で、アリババ、テンセントの2社のみ中国企業という状況です。日本企業の最高位はトヨタの42位(元年当時11位)となっています。結果的に平成という時代は日本の富が米国へ移動した30年だったのかもしれません。

私は個人的に平成に強い思い入れがあります。平成元年、人生を大きく変えるために宅配牛乳事業を起業する選択をして新たな第一歩を踏み出したからです。そして、その選択をしたばかりに、辛く苦しい体験、嬉しく楽しい体験を、それまでの人生よりもたくさんすることになります。その数々の体験、骨が記憶するぐらいの体験が、血となり肉となり、今の自分を作り上げていきました。平成以前の私は、夢があるわけでもなく、自分で何かをやり抜いた体験があるわけでもなく、何をやっても中途半端、なのに根拠のない自信と行動力だけは人一倍がある、そんな奴だったように思います。

起業後、乳業メーカーの後押しもあり仕事が次々に増えて、社員や配達アルバイトを増やしていきました。ところが、私の時間を守れないという致命的な欠点により、従業員から愛想をつかされ、一人、また一人と辞めていきました。当たり前ですが、人が辞めるたびに、やるべき仕事が一人分、二人分と自分にのしかかってきます。早朝4時からの配達が2時になり、12時になり、最悪の時には夜10時~翌朝10時まで配達、それが終わってから、卸売、自販機などの配達が夕方まで続きました。日曜日もパチンコ屋へ自販機の配達があり、休みもなく、長時間に及ぶ労働は本当に辛かった記憶があります。「なんで俺は毎日、こんなことをしているのだろうか」「いっその事ヤメようか」など、よく考えていました。笑い話ですが、後に社員が私の親父に「なぜ社長は会社を大きくできたのか」と尋ねられ「息子は若い頃、少なくともお前達よりも、よく働いとったで。休みなく、朝から晩まで(実際には夜中から夕方まで)働いとったわ。親戚からお前は自分の息子を殺す気かと、わしも叱られたことあるわ」と答えていました。実際、辞めていく人たちの配達を引き継いでいると、情けない思い、寂しい思いをたくさんしました。途中何度も諦めかけましたが、最後まで頑張り、立て直し、最後の配達を社員に引き継ぐことになりました。家族や友人は褒めてくれ、嬉しかった記憶があります。でも、もっと嬉しかったことがあります。それは、自分自身がやりきった、やり抜いたことを、自分を自分で初めて認めてあげることができたことです。今でも思い出すのは、楽しかったこと、上手くいったことより、長時間の辛い配達、ヤメようかと悩んだこと、みじめで情けない思いをしたこと、そんなことを鮮明に覚えています。そして、俺はやったやないか、逃げなかったやないかと、今思い出しても力が湧いてきます。自分がやったことは、たとえ世の中の誰も認めてくれなかったとしても、自分だけは、自分の心だけは、はっきりと覚えています。本当に不思議ですが、楽しかったことより辛く苦しかったことの方が良い思い出なんです。(今でもあの辛かった配達を夢で見ることがあります笑)

平成の始まりの苦しい体験は、その後の困難を乗り越えることのできる、大きな力を私に与えてくれました。平成の終わりに、令和に向けてある決意をしました。もう一度起業の頃の精神に戻り、心から楽しむにはどうすればいいかを考えてみました。人生はどれだけ生きたかではなく、どれだけ楽しんだかで決まる。楽しんだ人に失敗はない。人生は遊ぶためにある。人生はお祭りだ。そんな精神で生きていきたいと思います。詳しくは次号「令和」で書かせていただきます。

2019/06/01