渋沢栄一

今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」では「日本実業の父・渋沢栄一」を取り上げました。このドラマを観るまでの渋沢栄一の印象は、三菱の岩崎弥太郎と海運業で対立したライバルという印象しかありませんでした。しかし、このドラマを機会に、あれこれ調べてみると、渋沢栄一は日本経済の礎を築き、約500に及ぶ企業の設立に関わり、多くの功績を残した人物であると理解ができました。『大阪へ行くために「JR」に乗り「日経新聞」をひらいた。社内吊り広告に「サッポロビール」の新製品の宣伝があった。帰りに買って帰るために「みずほ銀行」のATMに寄る。今年ももう少しで終わる、年末年始は「帝国ホテル」で過ごし、初詣は「明治神宮」に行くかな。その前に「聖路加病院」に入院している親父の見舞いにも行かなくちゃ。』ここに出てくる固有名詞のすべての設立に関わった人物が渋沢栄一です。他にも、三井住友銀行、日本製鉄、東京海上日動、東急電鉄、東京証券取引所、キリン、東京電力、一橋大学など、数えればきりがありません。また、2024年より新一万円紙幣の顔となる人物です。

 

1840年・武蔵野国榛沢郡血洗島村生まれ。江戸時代末期・ペリー来航などにより長く続いた封建制度が終わり、新たな時代の幕が上がろうとする変わり目に、渋沢栄一は青年期を過ごしました。家業は製藍業・養蚕業を親の代から営み、割と豊かでありました。青年期に剣術習得のため道場へ通いだし、同じ道場に通う同志達の影響で尊王攘夷思想へ傾倒していきます。倒幕計画を企てるが未遂で終わり、京都に逃げ、平岡円四郎の推挙により一橋慶喜に仕官することになります。倒幕から仕官へと人生は真逆の方向へ歩み出しました。仕官後は真面目に働いたことを認められ一橋家の「勘定組頭(財政管理)」に就任します。やがて一橋慶喜が15代将軍徳川慶喜に就任。パリ万国博覧会の幕府使節団に抜擢されヨーロッパに渡り、日本にはない水道設備、蒸気機関車、エレベーターなどの科学技術を目にして驚きます。さらに、多くの人々から集めた資金で事業を行い、利益を分け合う「資本主義」に大きな衝撃を受けることになります。後に多くの企業設立に携わるきっかけが、このヨーロッパ視察にありました。ヨーロッパ視察中に徳川慶喜は大政奉還を行います。帰国後、幕府から新政府に任を移し、その後に実業家の人生をスタートします。1931年~1991年・91歳で亡くなるまで約五百の企業設立に尽力することになりました。

 

渋沢栄一の経営指針の根幹には「論語」があり、「仁義道徳に基づかないと、会社はうまくいかない」「個人の富は国の富であるから、自分だけが儲かれば良いという考え方ではダメだ」このような思想の持ち主でした。だからこそ、幕末からわずか数年間に日本の資本主義の礎を築くことができのだと思います。渋沢栄一の業績を考えれば、渋沢財閥を作ることも可能だったはずなのに、その道を選びませんでした。また、三菱の岩崎弥太郎から、「二人が手を結べば、日本の実業界を思い通りに動かすことができる」と、誘われたときも、岩崎弥太郎の才覚には深い尊敬を抱きつつ、大きな富を独占しようという結論は自分の考えと真逆だと断ります。まさに「論語と算盤」の経営を貫いた人でした。渋沢栄一は『論語と算盤』という著書の中で、論語と算盤は、はなはだ遠くて近いものと表現しています。当時は政界や軍部と結んだ企業が利益を独り占めしている図式がありました。そのような時代に実業とは多くの人にモノが行き渡るようになり、多くに人々に幸せを感じられるようすることが目的である、というのが持論でした。渋沢栄一曰く、「それが完全ではない場合、国の富は形にならない。国の富をなす根源が何かと言えば、社会の基本的な道徳を算盤とした素性の富なのだと。そうでなければ、その富は完全に永続することはできない。ここにおいて「論語」と「算盤」というかけ離れたものを一致させることが、今日の急務だと自分は考えている」と。

 

コロナにより情報化革命は一段とスピードを上げて、新たな時代へと進んだように感じます。WITHコロナの時代の到来は、人々の生活習慣を大きく変化させ、それに伴い、多くの企業も変革を求められています。時代に合わないモノは滅び、時代に合わせて変化したモノは振興していきます。先の見えない時代にどう生きるか?渋沢栄一の生き方・考え方は迷った時や悩んだ時に立ち返りたい原点だと思います。私もこれを機に、論語を読み返してみようと思います。

2021/12/01