Column 社長コラム
最高のライバル
平昌オリンピックで1番感動したのが、前号で書いたフィギュアスケートの羽生結弦だとしたら、1番心震え涙したのがアイススケート500mの小平奈緒とイ・サンファ、2人のウイニングランでした。
小平奈緒、1986年生まれ、長野県出身。信州大学教育学部生涯スポーツ過程卒業、社会医療法人財団 慈泉会 相澤病院 スポーツ障害予防治療センター所属。平昌オリンピック500m金メダル、1000m銀メダル、オリンピック日本女子スピードスケート史上初の金メダル、日本選手団主将、遅咲きの32歳。経歴が変わっていて中学2年で500m中学記録を樹立するがスケート部のない伊那西高校進学コースへ、同好会から参加してインターハイで500mと1000mの2冠獲得、全日本ジュニアでも優勝。全国大会で活躍した選手の多くが練習環境の整った実業団へ進む中、実業団の勧誘を断り、清水宏保を金メダルへ導いた結城コーチに学ぶために信州大学に進学。当時、国立大学の信州大にはスポーツ推薦がなく一般入試を経て入学した。信州大卒業後、相澤病院にて勤務する。「長期出張」扱いとして競技に打ち込む傍ら、相澤病院のサポートを受け2010年バンクーバーオリンピックを目指して選手として活動する。バンクーバーオリンピック500m12位(イ・サンファ金メダル)、ソチオリンピック500m5位(イ・サンファ金メダル)。ソチ後、相澤病院に籍を置いたままオランダへ練習拠点を移す。ここでコーチに「謙虚な日本人では通用しない」とレースに対する気持ちの弱さを指摘され、メンタルトレーニングを通じて勝負への執着心を学ぶ。2年間のオランダ留学後、小平の快進撃が始まり、イ・サンファとの実力が逆転し始める。
小平奈緒とイ・サンファは良きライバルで親友であることを裏付ける秘話があります。2015年ソウルワールドカップで小平選手が初優勝をした時のことです。オランダへの帰路を急ぐ小平のために、イ・サンファは空港までのタクシーの手配と料金を払ってくれました。「負けて悔しい思いがあるはずなのに、助けてくれた。人としても、選手としても尊敬できる」と小平は言います。その時の2人の会話を平昌オリンピック500m競技終了後のインタビューで答えました。小平「次のオリンピックはあなたが勝って、私が2位ね」と言うと、イ・サンファ「それならあなたが勝って私が2位でいい」と言い合っていました。こんな会話からも2人の強い絆が伺えました。もう1つは今オリンピックで小平が500mを走り終え、36.94秒の好記録に両手を広げ力強くガッツポーズをした直後のことです。歓声に沸く会場の日本人ファンに対して、口元に指を当て静かにするように求めました。次に走るイ・サンファを気遣っての行動でした。そのような配慮を韓国メディアは「小平は人間性も金メダル級」だと。このような2人の関係から全世界が涙した2人のウイニングランへ繋がります。
小平は金メダル確定後、自国開催で重圧の中戦い、銀メダルに終わり涙を流すイ・サンファに駆け寄り抱きかかえるようにして「私はあなたを今でも尊敬している」と慰労すると、イ・サンファは「500mも1000mもうまく滑れるあなたが誇らしい」と応じました。小平は日本国旗を体に巻きつけ、イ・サンファと共に韓国国旗を持って、抱き支えながらウイニングランをしました。スポーツの世界でも日本への対抗心をむき出しにする韓国マスコミですが「日韓の爽やかな友情物語」として異例の扱いで記事になりました。
学生時代の経歴から小平は自分で考え、自分で決めて行動してきたことがわかります。道が分かれれば、自らの意思を尊重し方向を決める。それが世界で戦う支えだったように思います。少し人より時間がかかったけれど、誰かに与えられたのではなく、自分で掴み取ってきました。それが良かったのだと思います。オランダへの留学を機に小平選手の競技人生が開花しますが、それからも自分を支えてくれたコーチや病院の方々への感謝をいつも口にしていました。そんな素晴らしい人間性だからこそ、30歳を過ぎてアスリートとしてはピークを過ぎた年齢にも関わらず、小平には何か計り知れない力が働いたのだと思います。「人事を尽くして天命を待つ」というより、「人事を尽くして天命を掴み取る」という積極的な心が小平の人生を花開かせたのだと思います。
2018/07/01