Column / 社長コラム 社長コラム

2023.12.01

織田信長〜桶狭間〜

歴史上で好きな人物はと聞かれたら「織田信長」「坂本龍馬」と即答できます。しかし、なぜ好きなのかと聞かれると、その理由を答えることはできません。彼らの伝記を読み、時代を切り開くような生き様に私自身が共鳴(共鳴は心から湧き出るもの)したのかもしれません。この2人には共通点があり、最期は謀反や暗殺によって生涯を閉じます。言うなれば、志半ばで亡くなってしまった点が残念でなりません。
 織田信長が歴史の表舞台に出るのは、「桶狭間の戦い」だと思います。今川義元軍約25、000人に対し織田信長軍約3、000人。まともに正面からぶつかれば織田軍はボコボコにされます。しかし、勝ったのは織田信長。その勝因には現代でも通じる学びがあります。
その勝因を紐解くために、まずは織田信長と今川義元の戦力の差を見ていきましょう。
【戦力の差1】身分
織田信長の父、織田信秀は尾張の半分を支配していた織田大和守に使える「清洲三奉行」の中のひとり、織田信長は尾張の守護代の家柄でした。今川義元の今川家は、駿河国、遠江国の守護大名という家柄で、身分上は完全に今川義元の方が上です。
【戦力の差2】軍事力
桶狭間の戦いに際して、織田信長は3、000人程度の兵士しか動員できなかったのに対して今川義元は25、000人程度の兵を動員していました。兵の人数だけでも10倍近い差があります。本来ならこれだけの圧倒的な差があれば、信長に勝ち目はないと考えるのが妥当です。
【戦力の差3】経験値
それぞれの軍を率いる将としても、家督を継いで間が無い織田信長に対して今川義元はいくつもの戦いを経て、駿河・遠江・三河の国を着実におさめ、「東海一の弓取り」と言われ、文武両道に優れた人物でした。武田や北条と三国同盟を結ぶなど目覚ましい活躍を見せていて、弱体化した室町幕府を支え天下に号令できる人物であると注目されていたことからも、経験に大きな差があることがわかります。
 戦力の差1〜3で書いたように、本来「桶狭間の戦い」は織田信長が勝てる戦いではありませんでした。織田信長の勝因は桶狭間という地の利を生かし、今川軍の数的優位を潰して、奇襲をかけたことでした。相手の優位なところを潰し、自分が優位なところだけで戦い、勝つ。
 「桶狭間の戦い」を調べていくと、戦力の差1〜3を覆すために織田信長は、打てる手をいくつも打っていることに気づきました。その一つが『偽の手紙』です。今川方に寝返った武将の筆跡を真似て織田信長の動きを伝える手紙を書き、わざと今川義元に渡るようにしました。「寝返ったはずの武将が信長の動き知っているのはおかしい」と今川義元の疑心暗鬼を呼び起こし、寝返った武将を切腹させます。これにより裏切り者を抹殺。
「信長公記」には今川方の動きが明確に書かれており、これは、今川方に織田方の内通者がいたことに他なりません。
桶狭間の前夜、織田信長は家来を家に帰しました。これは今川方の内通者を警戒してのことです。一方で今川義元は桶狭間で打ち取られるまで、織田方の2つの砦を落とし、意気揚々と戦勝に沸いていました。そんな中、突然の豪雨が降り出し、桶狭間にて休息を取ります。かたや織田方はたった5人で城を飛び出し、熱田神宮へ走っていくのですが、いくつかの集団に分かれて出発します。熱田神宮に集まった人数は1、000人。織田方の作戦を今川方に悟られぬよう、実に緻密に考えられた動きです。今川義元の周りにいる5、000人の兵。その5、000人の兵を分散させるために、織田方300人の兵を突撃させます。信長は300人の兵を囮に今川義元の周囲を手薄にさせます。豪雨の中、今川軍に勝つことより「狙うは今川義元の首一つ」こちらに集中しました。「桶狭間の戦い」を紐解いていくと、「戦争で勝つ方法と、ビジネスで勝つ方法は似ている」と感じました。
織田信長は「桶狭間の戦い」を機に、戦国武将の中心人物となりました。自分の人生を変え、天下人への道を一直線に歩んでいきます。世に出る機会となった「桶狭間の戦い」ですが、織田信長から見れば人生最大のピンチでした。しかし、絶対に折れない気持ち、絶対に引かない気持ちを強く持ち続け、必死に戦略を練り、幾つも罠を仕掛け、考えに考え抜いて臨みました。結果、この戦いが織田信長の人生を変える戦いとなりました。どんなピンチも心の受け止め方によって結果が決まると考えている、私自身の考え方と共鳴した様に思います。「桶狭間の戦い」は小が大に勝つ、戦国時代で最も好きな戦いです。
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