Column 社長コラム
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2021.12.01
渋沢栄一
今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」では「日本実業の父・渋沢栄一」を取り上げました。このドラマを観るまでの渋沢栄一の印象は、三菱の岩崎弥太郎と海運業で対立したライバルという印象しかありませんでした。しかし、このドラマを機会に、あれこれ調べてみると、渋沢栄一は日本経済の礎を築き、約500に及ぶ企業の設立に関わり、多くの功績を残した人物であると理解ができました。『大阪へ行くために「JR」に乗り「日経新聞」をひらいた。社内吊り広告に「サッポロビール」の新製品の宣伝があった。帰りに買って帰るために「みずほ銀行」のATMに寄る。今年ももう少しで終わる、年末年始は「帝国ホテル」で過ごし、初詣は「明治神宮」に行くかな。その前に「聖路加病院」に入院している親父の見舞いにも行かなくちゃ。』ここに出てくる固有名詞のすべての設立に関わった人物が渋沢栄一です。他にも、三井住友銀行、日本製鉄、東京海上日動、東急電鉄、東京証券取引所、キリン、東京電力、一橋大学など、数えればきりがありません。また、2024年より新一万円紙幣の顔となる人物です。
1840年・武蔵野国榛沢郡血洗島村生まれ。江戸時代末期・ペリー来航などにより長く続いた封建制度が終わり、新たな時代の幕が上がろうとする変わり目に、渋沢栄一は青年期を過ごしました。家業は製藍業・養蚕業を親の代から営み、割と豊かでありました。青年期に剣術習得のため道場へ通いだし、同じ道場に通う同志達の影響で尊王攘夷思想へ傾倒していきます。倒幕計画を企てるが未遂で終わり、京都に逃げ、平岡円四郎の推挙により一橋慶喜に仕官することになります。倒幕から仕官へと人生は真逆の方向へ歩み出しました。仕官後は真面目に働いたことを認められ一橋家の「勘定組頭(財政管理)」に就任します。やがて一橋慶喜が15代将軍徳川慶喜に就任。パリ万国博覧会の幕府使節団に抜擢されヨーロッパに渡り、日本にはない水道設備、蒸気機関車、エレベーターなどの科学技術を目にして驚きます。さらに、多くの人々から集めた資金で事業を行い、利益を分け合う「資本主義」に大きな衝撃を受けることになります。後に多くの企業設立に携わるきっかけが、このヨーロッパ視察にありました。ヨーロッパ視察中に徳川慶喜は大政奉還を行います。帰国後、幕府から新政府に任を移し、その後に実業家の人生をスタートします。1931年~1991年・91歳で亡くなるまで約五百の企業設立に尽力することになりました。
渋沢栄一の経営指針の根幹には「論語」があり、「仁義道徳に基づかないと、会社はうまくいかない」「個人の富は国の富であるから、自分だけが儲かれば良いという考え方ではダメだ」このような思想の持ち主でした。だからこそ、幕末からわずか数年間に日本の資本主義の礎を築くことができのだと思います。渋沢栄一の業績を考えれば、渋沢財閥を作ることも可能だったはずなのに、その道を選びませんでした。また、三菱の岩崎弥太郎から、「二人が手を結べば、日本の実業界を思い通りに動かすことができる」と、誘われたときも、岩崎弥太郎の才覚には深い尊敬を抱きつつ、大きな富を独占しようという結論は自分の考えと真逆だと断ります。まさに「論語と算盤」の経営を貫いた人でした。渋沢栄一は『論語と算盤』という著書の中で、論語と算盤は、はなはだ遠くて近いものと表現しています。当時は政界や軍部と結んだ企業が利益を独り占めしている図式がありました。そのような時代に実業とは多くの人にモノが行き渡るようになり、多くに人々に幸せを感じられるようすることが目的である、というのが持論でした。渋沢栄一曰く、「それが完全ではない場合、国の富は形にならない。国の富をなす根源が何かと言えば、社会の基本的な道徳を算盤とした素性の富なのだと。そうでなければ、その富は完全に永続することはできない。ここにおいて「論語」と「算盤」というかけ離れたものを一致させることが、今日の急務だと自分は考えている」と。
コロナにより情報化革命は一段とスピードを上げて、新たな時代へと進んだように感じます。WITHコロナの時代の到来は、人々の生活習慣を大きく変化させ、それに伴い、多くの企業も変革を求められています。時代に合わないモノは滅び、時代に合わせて変化したモノは振興していきます。先の見えない時代にどう生きるか?渋沢栄一の生き方・考え方は迷った時や悩んだ時に立ち返りたい原点だと思います。私もこれを機に、論語を読み返してみようと思います。
2021/12/01 -
2021.11.01
東京オリンピック2020
東京オリンピック2020は7月23日~8月8日まで、205カ国・地域などから約11,000人の選手が参加し、33競技339種目が17日間にわたって開催されました。新型コロナウィルスの世界的な感染拡大で近代五輪史上初めて1年間延期され、大会期間中も緊急事態宣言下で、ほとんどの会場が無観客となった異例の大会となりました。日本勢は2004年大会を更新する金27個、2016リオデジャネイロを更新する計58個と史上最多のメダルを獲得しました。多くの見どころがありました。野球・侍ジャパン・五戦全勝、柔道・阿部兄妹同日V、水泳・池江璃花子 奇跡の「東京」、レスリング・川井姉妹で「金」、ゴルフ・稲見萌寧メダル初「銀」、体操・内村衝撃の落下、卓球・水谷、伊藤 中国破り「金」など多くの感動や衝撃を都度感じながらの観戦となりました。オリンピックでのアスリートのコメントも、今と昔では随分違ってきました。昔は、「ちょー、気持ちいい~」など、自己の喜びの表現が主流だったように思いますが、今は、「支えてくれた方への感謝」をコメントする方が多くなりました。また、オリンピック期間中は、日本という国を多くの場面で意識する機会となり、改めて、日本人であると言う自覚が蘇った期間でもありました。
今回の大会で個人的に一番心揺さぶられたのは、柔道・大野将平選手でした。1年間の延期が余儀なくされる中、前回大会からの5年間、金メダル連覇へのプレッシャーの中、多くの葛藤と我慢を強いられながら、金メダルを獲得しました。このプロセスに私の人生を重ねてしまい、勝手に自分ごとのように感動しました。彼のルーティンは、どの選手よりも早く会場入りし、真っ先に畳にあがります。仰向けになり天井を見つめ「今日1日、二度とこの景色を見ないように」と。大野選手は言います。「前回のリオデジャネイロオリンピックは24歳で怖いもの知らずで戦えましたが、チャンピオンになってからは、勝ち続けることの怖さを知りました。2連覇というのは過去の歴史でも3人の先輩方しか達成できていません。井上康生監督ですら2連覇の壁を乗り越えることができなかった。準決勝・決勝と延長になりました、今まで感じたことのない恐怖を感じ、ただただ怖かったです」。よくモチベーションを維持できましたね、という問いには「5年間でモチベーションの上がり下りは何度もありました。何のためにきつくてしんどい稽古やトレーニングをやっているのだろうか、という気持ちにもなりました。1年延期してなかったら、もう休めていたかもしれないとも考えました」。「何のために柔道やっているのかと自問自答もしました。若い頃は自分のために自分の内側から出てくるものに頼っていたのが、だんだん、内側のモチベーションだけで走れなくなってきて、いろんな要素をモチベーションにして自分のケツを叩きました。その一番は延期になっても大野は強い、当たり前に勝ってくる。この声を一番のモチベーションに変えました。この周囲の声に自分自身が乗っかってしまうと、自分は負けると理解していたので、この1年間自分が負ける姿を想像して稽古をしてきました。それが一番のストレスではあったんですが、だからこそ我慢できたように思います。」練習を休みたくなったことは、との問いには「朝起きて、今日休もうと思うこともあります。しかし、逆に休む勇気を持つことの方が難しかった。練習をやりすぎてしまう自分がいて、人に止められたら休むというのを、自分への合図にしていました。自分で休む合図を決めてしまったら、いくらでも妥協できますし、いくらでも休む理由なんか見つけてこれますので」。東京オリンピックから学んだことはと言う問いには、「一番は覚悟をするということ!自国開催で勝つということは普通のオリンピック以上に覚悟が必要だったと思います。私にとって覚悟とは準備を整えること。楽しむ場ではない、戦いの場だということを。大げさに言うと、生きるか死ぬかの殺し合いの場だということを胸に刻み戦いました」。大野選手の戦いを見て、心動いた人が多くいると思いますがとの問いには「生きていると辛く苦しい場面もあります。我々、アスリートの姿を見て奮い立って欲しい、これが、一番の願いです。スポーツは心動かせる存在であって欲しいです」個人的に大野選手の好きなところは、勝っても表情を崩さない理由が「相手に敬意を表す」という、日本人が大切にしてきたことを実践しているところです。
東京オリンピック1964大会では終戦から19年が経ち、戦争で焼け野原になった、この日本の復興を世界に示すことが「国」として意味があったのでしょう。あれから57年、わずか半世紀余りで私たちの国は、あの頃とは違う国になってしまったように思います。政治家も企業も、そして国民も「経済」ばかりを追い求めた結果、「富」という豊かさと引き換えに、「心」の豊かさを、どこかに置き忘れてきたように思います。結果、社会的な格差は広がり、自分さえよければ良いという風潮が蔓延しています。人々はこの国や社会のためにという「志」も「大義」も持てず、安全に生きることができる日本の今に感謝すらしないようになりました、相手の言葉を聞かず、自分の言いたいことだけを言う。不平不満だけを吐き、世の中を変えようという気概もない。これが「平和」の正体なのでしょうか。今、新型コロナ感染症によって国民は心も生活も疲れ果て、未来を見失いました。オリンピックでは観客も奪われ、歓声の聞こえない閉会式となりました。東日本大震災からの「復興五輪」として描いた夢や計画は幾度も変更され、次々と担当者が入れ替わり、我々は四分五裂し、東京2020は人々の思いから離れつつ、閉会式を迎えました。残念に思います。このことを、次世代を生きる者は、どのように記憶し、未来に繋いでくれるのでしょうか。
今回の大会では困難な状況にもかかわらず、アスリートたちは胸を張って堂々と歩んでくれました。すごく誇らしく思えると同時に、アスリートの栄光と挫折に寄り添えたことに感謝の気持ちでいっぱいです。
2021/11/01 -
2021.10.01
これでいいのだ!
私は毎月初めに神社・仏閣にお参りすることを習慣としています。この習慣は経営の厳しかった頃、藁をもすがる気持ちで神頼みに行ったことが始まりでした。近年は神頼みというより、感謝の気持ちを持って、お礼参りに行くことが多かったのですが、最近は長引くコロナの影響から自分自身や家族・社員・友人の健康や会社の業績など、知らず識らず自分ごとを神頼みしていました。ある日、いつものようにお参りしていると、お父さんに抱っこされた3歳ぐらいの女の子が横に来てつぶやきました。「世界中の人がコロナから救われますように」と。私は頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けました。自分のことばかり祈っていた自分の小ささを恥じ入りました。
その後です、私がコロナにかかったのは…。少し経緯を説明しますと、社員の運転手とお墓参りに行きました。運転手は10日程前から体調が悪く、倦怠感と下痢の症状がありました。「コロナじゃない?大丈夫?」と尋ねると「熱もないので大丈夫です」と。その日はほぼ一日中、運転手が運転する車の助手席で過ごしました。次の日から5日ほど倦怠感と下痢の症状がでましたが、すぐ症状は無くなりました。まさかコロナだとは思いませんでした。お墓参りから2週間ほど経った頃、ある社員が抗体検査をしたいというので、ついでに、私と運転手も検査すると、2人共陽性。こりゃヤバイと、次の日に近所の病院に事情を話してPCR検査を受けました。そこで、運転手陰性、私は陽性でした。それからが大変でした。濃厚接触者と認められPCR検査を受けられるのは前日と前々日の2日間に会った人だけ(社員3人・家族の家内と娘の5人)とのことでした。それ以外はPCR検査を受けられないので、この2週間に会った方々に事情説明し抗体検査を受けてもらい、全員陰性でした。濃厚接触者五人は病院でのPCR検査を受けた結果、家内、娘は陰性、社員1人陽性でした。社員は高熱でずっと寝込んで、本当にかわいそうでした。ただもっと辛かったのが、娘が濃厚接触者ということで学校へ行けない状況になり、辛い思いをさせてしまったことです。
その後2週間の自宅療養はすごく時間があり、癒されるようなYouTubeをたくさん観ました。その中に、私を救ってくれたYouTubeがあったので紹介します。それは赤塚不二夫さんの葬儀の時にタモリさんが述べた、お別れの言葉でした。『赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのために騙されたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたことがあります。しかし、あなたから後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折見せる、あの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました。あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい意味の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を絶ちはなたれて、その時、その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは、見事にひとことで言い表しています。すなわち「これでいいのだ」と』。
コロナ禍、順風満帆の人はあまりいないかもしれません。会社の業績や行動の制限からくるストレスなど、苦しんでいる人がいっぱいいるように思います。このYouTubeを観て、私が救われた点は、コロナ感染拡大を人のせいにして非難したり、コロナウイルスを憎んでみたり、行政のルールのせいにしたり、何かのせいにしてしまいがちですが、全てを受け入れようと決めたことです。誰かのせいや、何かのせいにしても、何の解決にもならないし、明るい未来はやってこないように思います。自分がこの苦難を「これでいいのだ」と受け入れ、明るい気持ちで前に向かっていけば必ず幸せになれるような気がします。自宅療養の間、有り余る時間があり、もう一つ気づきがありました。それは、「頑張らない時間」の大切さです。以前は、仕事とプライベートの境目がありませんでした。「仕事が遊び、人生の全てを賭けてやる遊びが仕事」こんな風に生きていました。そもそも遊びだと思って仕事をしているので、朝から晩まで仕事していても全く疲れることはありませんでした。しかし、たっぷり睡眠をとると頭が回るようになり、それまで、ずっと考え続けていたことが整理整頓できました。「頑張らない時間」はとても大切です。頑張りすぎている人はゆっくり休むことをお勧めします。
2021/10/01 -
2021.09.01
正義中毒
正義中毒~人は、なぜ他人を許せないのか?~』このタイトルの本を衝動買いしました。その理由は近年の世間の風潮に疑問があったからだと思います。最近だとソフトボールで金メダルを取った後藤選手が河村名古屋市長を表敬訪問中、河村市長が金メダルをがぶりと噛んだ事件がありました。このがぶり事件をメディアは連日に渡り、そこまでやらなくてもいいんじゃないかというぐらいに袋叩きにしました。それに同調するかのごとく、一般視聴者からテレビ局への批判が殺到し、SNSは炎上しました。確かに河村市長の行いはこのコロナ禍に於いて、配慮が無さすぎる行いですが、コロナ禍でなければ親近感を込めての行動とも言えます。少し遡ると世界の渡部の多目的トイレ不倫事件がありました。渡部さんは未だに復帰にも至っていません。渡部さんの行いも褒められたものではありませんが、それでも、そこまでやるかというぐらい世間のバッシングはひどいものでした。河村市長、渡部さんの行いは確かに悪いことですが、あまりに行き過ぎた「不謹慎狩り」「不倫叩き」のように感じたのは私だけでしょうか。
この本では、最近の風潮である「正義中毒」について詳しく書かれています。「我こそは正義」と確信した途端、人は「正義中毒」になる。「清純な優等生キャラで売れていた女性タレントが不倫していた」「飲食店のアルバイト店員が悪ふざけの動画をSNSに投稿した」「大手企業がCMで差別的な表現をした」これらの事例は、自分や自分の身近な人が直接不利益を受けたわけではなく、当事者と関係があるわけでもないのに、強い怒りや憎しみの感情が湧き、知りもしない相手に非常に攻撃的な言葉を浴びせ、完膚無きまでに叩きのめさずにいられなくなってしまうという、「許せない」が暴走してしまっている状態です。我々は誰しも、このような状態にいとも簡単に陥ってしまう性質を持っています。人の脳は、裏切り者や、社会のルールから外れた人といった、わかりやすい攻撃対象を見つけ、罰することに快感を覚えるようにできています。このような思考パターンがひとたび生じ、止められなくなる状態は恐ろしいことです。本来備わっているはずの冷静さ、自制心、思いやり、共感性などは消し飛んでしまい、普段のその人からは考えられないような、攻撃的な人格に変化ししまうからです。特に対象者が不倫スキャンダルのような「わかりやすい状態」を晒している場合、そして、いくら攻撃しても自分の立場が脅かされる心配がない状況などが重なれば、正義を振りかざす格好の機会となります。
しかし、現実社会においては、誰にでもしがらみがあり、社会的な立場があって、損得感情や忖度も働きます。こうした条件がブレーキとなり、リアルな人間関係の中では、「許せない」という感情を飲み込むことが望ましい態度とされています。平社員が社長に、営業担当がクライアントに腹を立てても、今後のことを考えれば、態度に出したり、まして罵ったりはしないでしょう。本音は作り笑顔の裏側に注意深く隠しているケースが大半というわけです。特に、自分の意見をはっきり言わない人が多い日本においては、その傾向が顕著です。この状況を「見える化」してしまったのがインターネット社会の出現、とりわけSNSの普及ではないでしょうか。当初インターネットの世界はアンダーグラウンド的なものでした。少なくとも、社会の多くの人がそこに参加しているとは言いがたく、あくまで現実社会とは並行的に存在する別の世界だというコンセンサスがありました。しかし、ツイッターやフェイスブックを始めとするSNSがここ十年ほどの間に急速に普及したことで、状況は一変しました。誰もが参加でき、発信できる場としての地位が確立されたことで、インターネットの世界が現実の世界と重なり合うようになったのです。今やインターネットでの情報発信は世論を動かす力まで持つようになりました。この情報発信がエスカレートし、複数の人から攻撃的なコメントが頻回に寄せられて、人格攻撃が含むようなやり取りが短時間に飛び交うこともあります。いわゆる「炎上」です。炎上が起こっているときには、多くのケースで匿名のアカウントが使われます。攻撃者はよほどの不法行為でも働かない限り、自らに直接危害が及ぶことはなく、事実上安全であることが多いようです。面倒なことになりそうになったら、アカウントを削除、あるいは放置してしまえば良いということなのでしょう。こうして人は、自らの意見に反する有名人に安心して罵りの言葉をかけ、炎上した一般人を見つけたら、そこに加勢し聞かれてもいないのに自説を自信満々に開陳してしまうことになりました。
長い人生にはかっこよく勝つことよりも、無様に負けたり、だらしなく恥をさらすことの方がはるかに多いように思います。そして、負けた経験や試練の中で味わう、「悲しみ・苦しみ・辛さ」の経験から人の心の痛みを理解ができるようになり、優しく温かい人になれるのだと思います。しかし、今の世の中で行われている過度な人格否定は、その人の人生そのものを奪ってしまうように思います。「優しきことは強きこと」という言葉があります。人を匿名でバッシングする人は強い人ではありません。本当の強い人は人の心の痛みがわかる人だと思います。強き人にしか優しき心は宿りません。みなさんに、あえて言わせてください。「優しい人間であってほしい、そのために強い人間になってほしい」私は強き人、優しき人でありたいと思います。
参考文献 中野 信子著『人は、なぜ他人を許せないのか?』 アスコム、2020年
2021/09/01 -
2021.08.01
空母いぶき
先輩の勧めで『空母いぶき』という映画を観ました。フィクションではありますが、リアルな日本の実情が理解でき、おもしろく観ることができました。映画では架空の敵国設定でしたが、原作の漫画では中国が敵国だったので一層のリアル感がありました。
漫画『空母いぶき』での物語は尖閣諸島に三人の中国人が避難上陸するところから始まります。自衛隊が身柄の確保をしようとしたが応じず、中国国旗を掲げたため、強引に身柄を確保します。中国より救助目的に空母遼寧が発進、遼寧から戦闘機を発進させ、日本の巡視船に威嚇射撃をしてきます。日本は三人の身柄引き渡しを打診し、中国へ引き渡します。米国は積極的な介入はせずとの方針で、中国政府もそれを確認。威嚇射撃に屈した幕引きは、日本の負け戦と言われ、この問題を機に「ペガソス計画」が急ピッチで進み、「空母いぶき」が就役します。日本と中国の両政府はそれぞれの根拠を掲げて尖閣諸島の領有権を主張、日本側が「国連に提訴する」と言っても、中国側は動じる気配もありません。またアメリカは、中国を相手に事を構えるのを良しとせず、静観。日本に残された選択肢は、自己防衛能力を強化すること。その具体策が、「空母いぶき」でした。中国軍の侵略に対し、いぶきを中心とした陸・海・空の自衛隊が戦います…。
この姿を見ると、日本を守るために空母は必要だという意見にも納得できるし、その一方で空母を作ったことで中国を刺激しているという意見にも耳を傾けたくなります。空母は本当に必要なのか、考えながら読み進めると、この作品を最も楽しめるように思います。
漫画『空母いぶき』は、かわぐちかいじ作、恵谷修監修で、『ビッグコミック』(小学館)にて2014年24号から2019年24号まで連載されました。本作の魅力のひとつとして、リアリティの高さが挙げられています。2016年に雑誌『正論』で、衆議院議員の小野寺五典、元海将伊藤俊幸、軍事ジャーナリストの潮匡人が、この作品をテーマに対談を行いました。小野寺氏が初めて防衛大臣を務めたのは、2012年から2014年のこと。当時も中国による威嚇行為や侵犯行為が頻繁にありました。そんな時期も相まって「あまりにリアルで驚いた」「私たちが経験した緊張感を共有している」と述べています。また、伊藤氏も「現場をよく知っている」と作者に感心していて、特に船内での会話などは「自衛隊に協力者がいるのでは」と感じたそうです。中には現実ではあり得ない展開もありますが、「安全保障環境の厳しさや防衛問題を知るきっかけとして、多くの人に読んでもらいたい」と、プロのお墨付きを得ている作品です。
「戦争をしてはいけない」というのはその通りです。しかしそれだけでは何も問題は解決しません。今、考えなければならないのは「戦争をしない」ためには具体的にどうすればよいのか、ということです。日本が戦力=軍隊を持たないことが「戦争をしない」ことになるのでしょうか。日本が戦争を放棄しても、戦争は決して日本を放棄しないのです。日本という国が「抵抗しない」のであれば、戦争にならないかもしれませんが、結果それで済むはずがありません。それが「平和」であるはずもなく、むしろ「奴隷の平和」であり、相手の国の「言いなりになるしかない平和」です。「抵抗する」は国際法の言葉で言えば「自衛権を行使する」この自衛権は世界のどの国にも認められています。「戦争をしない」ためには、日本は戦争をしないというだけではなく、相手の国に「戦争をさせない」ことが重要です。つまり、相手の国が日本に戦争を仕掛けようとしても、それを思い留まらせるだけの「力」を持つことが必要です。「戦争をしない」ためには、いざとなれば「抵抗できる」だけの「力」、「戦争をさせない」ための「力」が必要です。
これまで戦死者が出なかったのは、他国から日本への侵略行為がなかったからです。日米安保と自衛隊の活動とが相まって抑止力が働いた結果、平和が維持されました。決して憲法九条という条文があったから戦死者が出なかったのではありません。一方、自衛隊が軍隊になれば「自衛隊員の戦死する危険性」が出ると言われますが、そもそも国民の安全や社会の秩序を守る仕事には、自衛隊に限らず、警察官や消防士であっても常に危険が伴います。
戦争への覚悟を持つ、戦争を阻止する覚悟。自国は自国で守る。日本の国防は否応なく新たな時代に入っています。何が正しく、何が正しくないのか、そのために何をすべきなのか。どんなに言い訳をしても、どんなに誰かのせいにしても、結局いつかは自分でやるしかありません。自分と向き合うことでしか、未来は開けません。どんなにごまかそうとしても、上手くいかない悩みは、「考えて動いてみる」ことでしか、問題は解決しないのです。依存するとは自由を失うことです。厳しい環境が考える力を与えてくれます。自分と向き合うことで初めてあり方は強くなる。自己肯定感という言葉が最近流行っています。自尊心、自己評価という言葉も類義語です。困難に対しての向き合い方が自己肯定感の高低を決めます。「今の自分を好きになろう」「自分をもっと認めよう」それができれば最初から問題は起こらないはずです。今回『空母いぶき』を通して、自分なりに国家感を考える機会となりました。自分の国、すなわち日本のことは自分のこと。私たち、ひとり一人が考えるべきことであるとの結論に至りました。
参考文献 かわぐちかいじ作、恵谷修監修『空母いぶき』小学館,2015年
2021/08/01 -
2021.07.01
夢に日付を
(株)明治からの紹介でワタミの弁当を販売するになりました。ワタミさんとの商談の時、十年以上前にワタミ創業者の渡邉美樹氏著書『夢に日付を!』(2005年,あさ出版)を読み、生き方を変えたことを思い出しました。その頃の私は、『夢に日付を!』を参考に、真面目にコツコツと努力することが立派な経営者への道だと考え、スケジュールを日々こなす毎日を送っていました。この日は毎月発行される経営書を読み知識を高める、この時間はセミナーへ行き未来必要な経営のノウハウを学ぶ、この時間は交流会に行き人脈を増やすなど。しかし、何も変わらない、あまり大きな成果も出ない日々が続いていました。そしてある日、いやいやスケジュールをこなしている自分に気づきました。スケジュールに夢実現の期日を書き、毎日それに向かって努力をする生き方は容易ではなく、生き方を変える決心をしました。大きく変えたキーワードは「努力」から「楽しむ」でした。無理して頑張らない。努力はしない。考えて行動するのではなく感じて行動する。夢の実現に必要かどうかより、自分が楽しいかどうかを重要視する。読まなければならない本は読まず、読みたいと思える本だけを読む。セミナーや交流会には行かず出会いは天に任せる。このように選択の基準を変えることにより、大きな変化が起こり始めました。楽しく付き合える多くの経営者と出会い、やがて彼らが仲間と呼べるような存在になり、新たなビジネスが始まり、仲間が新たな仲間を連れてくるようになりました。行動範囲が広がり、仕事の世界観が広がり「仕事が遊び、遊びが仕事、人生をかけてやる遊びが仕事」。「努力」から「楽しむ」へ、選択の基準を変えることで、楽しくて仕方がない日々を実感できました。
それから十年が経ち、あれだけ楽しかった新規事業への思いも、夢を見ることはできても、ほとんど存続できず、成功には至りませんでした。事業資金が底をつくと、仲間だと思っていた者たちも、散り散りばらばらになりました。最近は仕事への思いも自分が楽しいだけではダメ、「利己」より「利他」が大事だと思うようになりました。新規事業を立ち上げる思いも、自分が楽しいと思えるかより、どれだけ社員がやりがいを持てるのか、そして、その地域の人や、その地域にどう貢献できるのかが最も重要なことなのだと気づきました。そんな在り方の変化の中、もう一度『夢に日付を!』読み返すことにしました。すると過去、渡邉氏のように努力する生き方はできないと思っていた自分が、嘘のように本の内容がすっと心に染み込みました。年齢を重ね、在り方(選択の基準)が変化したのかもしれません。この本を改めて読み、事業が上手くいかない理由が理解できました。夢を実現するために最も足りていないことは、「もっと深く夢をイメージすること」だと気づきました。現に最初に起業した牛乳宅配事業に対する思いは、未だ燃え続けています。周りを見渡すと、私が使っている机も、パソコンも、外には外に目をやると自動車や飛行機も、誰かがイメージしたものです。この世に誰もイメージしなかったものは存在しません。もう一つ、足りていなかったことは「夢を持ち続けること」「夢をあきらめないこと」だと思います。そして、そのために必要なことは「夢に本気になる」ことだと、改めて心に落とすことができました。
私の起業の動機は「金持ちになりたい」でした。今は自分のことより、社員と共に幸せになる、お客さんに喜んでもらう、などの思いが強くなってきました。社員やお客さんのことを真っ先に思えるようになったのも、元をたどれば「金持ちになりたい」という夢を持ったから起こったことです。夢も成長し変化するのですね。自分の欲で始めた事業であっても目標に向かって突き進めるならそれでよし、人生の目的は、「夢の実現よりも夢に向かうプロセスの中で人間性を高めること」なのかもしれません。人はつい、学歴・業績・お金をどれくらい持っているか、などを他人と比較してしまいます。そもそも、人は生まれた環境も、持っている才能も違うのに、「ヨーイどん」で同じ競争ができるわけはありません。一生懸命頑張っても、なかなか社会から評価を得られないこともあります。だからと言って自信をなくす必要はありません。あくまでそれは人生の途中経過です。自分の人生で大事なのは、自分の成長であって、他の人と比べることに、何の意味もありません。人生は他人との競争ではなく、あくまでも、自分自身とのレース。着実に歩いていけば夢は成長していきます。比べるのは「昨日の自分」。
2021/07/01 -
2021.06.01
田中邦衛
先日、田中邦衛さんが亡くなりました。昭和の名優がまた1人この世を去り、寂しい限りです。1932年11月生まれ・88歳没。一九九五年俳優座養成所入所し、1961年「若大将シリーズ」を皮切りに「網走番外地シリーズ」、1973年俳優座退所後「仁義なき戦いシリーズ」1981年「北の国から」1983年「居酒屋兆治」など数々の映画やテレビドラマに出演し人気を博していました。中でも、映画・「若大将シリーズ」での青大将役、「北の国から」での黒板五郎役を演じ、国民的俳優になりました。1960年代半ばから共演を重ねた高倉健を尊敬していて、1985年の「夜叉」で高倉健に加えて、ビートたけしも共演したことから、高倉健に漫才の稽古をしようと誘われたエピソードがあったようです。その個性的な風貌から、いくつかの漫画のキャラクターのモデルになっています。尾田栄一郎著「ONE PIECE」では、主人公の海賊ルフィを追う海軍本部の海軍大将「黄猿・ボルサリーノ」が、「仁義なき戦い」の田中邦衛をモデルにしています。ブルーリボン賞助演男優賞「逃がれの街」「居酒屋兆治」・日本アカデミー賞最優秀助演男優賞「学校」「子連れ狼・その手の先に」・1999年には紫綬褒章・2006年旭日小綬章と数々の賞も受賞されています。
随分昔になりますが「北の国から」の最終回で田中邦衛演じる五郎が2人の子供(純と蛍)に遺言を残します。そのシーンを観て、自分の中にある何かが芽生え、PTA活動を始めるきっかけとなりました。そのセリフは『人として親としてお前たちに伝えるべきことがある。財産や資産は残してやれない。金なんか望むな、幸せだけを見ろ。そして、つつましく生きろ。それが、父さんからお前たちへの遺言だ』。この言葉は私の親としての責任を思い起こさせました。「子供たちがまだ判断力のない、子供の時代に子供たちに伝えるべきことを伝えなければならない」と思いました。それまで、私が思う父親の役割は仕事をして稼ぎ、子供たちの選択肢を広げてあげることだと、それ以外は母親の役目だと思っていました。しかし、五郎の言葉を聞き、父親として、子供たちに沢山の教えるべきこと、伝えるべきことがあるはずなのに話していないことに気づかされました。「礼儀や挨拶の大切さ」「親や祖父母を大事に想う心」「人としての考え方や生き方」など。子供たちのことや地域のことをもっと知りたい、そんな思いでPTA活動を始めました。
それから、10年間もPTA活動をすることになりました。このPTA活動を通して感じたことは、親が見ている以上に、子供たちは親のことを汚れのない目で見ているということでした。だからこそ、子供たちに、恥じるような生き方はできない、と当時思いました。PTA活動は「キャンドルサービス」のようなもので、自分の子供ではない子供たちに「愛情」「幸せ」を分けても決して自分の火は小さくなったり、消えたりはしません。それどころか逆に分け与えた周りの火によって自分自身の「愛情」「幸せ」を感じて温かい気持ちになれたように思いました。今思えば、子供たちのために行った、校区の防犯チェック、朝の挨拶運動、運動会でのタバコ注意、など良き思い出です。しかし、地域はいろいろな方々の集合体です。PTA会長としての発信は受け取られ方も多種多様です。挨拶をしない子供たちに大きな声での挨拶を強要したら、知らない人に声をかけられても無視しなさいと親に教えられていたり、運動会で喫煙場所ではない所で吸っている父兄に注意したら、逆に文句を言われて、意地になって注意してしまったりと、良かれと思ってとった行動も後味悪かったりで、会社経営よりも、PTA活動の方がよっぽど難しいと当時は感じました。また、冗談のような話ですが、PTA会長は地域の顔で、良きにつけ悪しきにつけ地域のお母さん方から見られています。ある日の昼食時、時間がなかったので近所の吉野家ヘ行き、急いで食事を済ませると、それを見ていたPTAのお母さんが「会長は毎日吉野家で牛丼食べている。会社が危ないからで、もうすぐ潰れるらしい」と噂されたり、コンビニの本のコーナーでパラパラと雑誌を物色していると「会長がコンビニでエロ本立ち読みしとった」と。コンビニにエロ本無いし、と思いながら、当時噂を弁解したことを覚えています。
子供たちのために行ったPTA活動を終えて、6年が経ちました。3人の子供たちも、今年26歳・23歳・18歳と、それぞれ成長し物事の判断がつく年齢になりました。しかし、今はコロナ禍、通常の時とは違います。今この時(特に長男・次男)に伝えるべきことがあるとしたら、これからを生き抜くのに必要なものは、「先見性」「リーダーシップ」だと思います。「先見性」=これからは情報の差が収入の差と成ります。大事なことは生き抜くためにリスクをとる必要があり、そのリスクは情報によってカバーが必要です。そして、最も必要な情報源は時代の先頭を走る人だと思います。「リーダーシップ」=これからの時代に最も必要なことは戦う覚悟を持つこと。そして、イノベーション(革新)、差別化、グローバルが大きく起こり、未来は企業が国を選ぶ時代になるということ。コロナ以降の新たな時代を生き抜いて欲しいと願います。
2021/06/01 -
2021.05.01
ROLAND
テレビでホスト界の帝王・ROLAND(ローランド)と林 修先生の対談番組を観ました。歯切れ良い言葉、風貌とは反した真面目な語り口からROLANDに興味が湧き、あれこれ調べてみました。1992年7月27日東京生まれ、父親はミュージシャン、双子の妹と弟がいる。自覚はないが小さい頃から変わったこどもだと周囲に言われた。サッカー選手を目指して青春のすべてを捧げたが夢叶わず、なんとなく進学した大学を入学早々に辞める。なぜか頭の片隅にずっとあったホストの世界に入る。どうせやるからには、帝王と呼ばれる伝説のホストになると心に誓った。下積みも経験したが、最近は押しも押されもせぬホスト界の帝王として、テレビや雑誌などに日々取り上げられるようになった。まだ弱冠28歳。ROLANDを調べているうちに、なぜ今脚光を浴びているのかが紐解かれました。その大きな理由は、圧倒的にインパクトのある言葉だと思います。メディアで発信した言葉達は「ROLAND名言」として、世間で話題となり、多くの方々から言葉の真意やどう生まれたのかの問い合わせが殺到したようです。今回、ROLANDの名言を読み、心が動いたものを紹介したいと思います。
まず一番有名な名言は「世の中には二種類の男しかいない 俺か俺以外か」この名言は幼少期から自分は特別な人間だと感じていて、どこにも属さない、属したくないと心から願う子どもだった。もはや、クラスに分けられることすらも抵抗を感じていたことを覚えている。だからこのセリフは幼少期から使っていた。そして、大人になって気づいたことがある。歴史的に何かを成し遂げるためには、ある程度エゴイスティックになる必要があるし、自分は特別であると信じる必要があるように思う。要は「素敵な勘違い」ですね。きつくても、辛くても、どんな犠牲を払ってでも、唯一無二の「俺」でいたい。
次に、「全力で向き合ったからこそ、全力で諦められた」俺には夢を諦めた過去がある。10年以上追い続けていたサッカー選手という夢を、俺は自らの意思で諦めたのだ。東京都大会の決勝で我々帝京高校は敗れ、引退が決まった。その時に湧き上がってきた感情を、俺は未だ鮮明に覚えている。敗れた悔しさはもちろん、「やっと終わったな、やっとサッカーから離れられる」と、安堵と開放感に似た感情も湧き上がってきたのだ。不思議とまったく未練を感じなかった。あの清々しい感情は、後にも先にもこの日だけだ。今考えると、全力で取り組み、全力で向き合い、自分で考えうる限り最大限の努力をした結果だからこその感情だったのだろう。もし、適当な気持ちで夢に向き合っていたら、何気なく努力していたら、今でも中途半端に、夢とも言えない夢を追いかけ続けていたかもしれない。夢は叶わなかった。けれども、あの時過ごした10数年は、俺に夢や目標に全力で向き合うことの大切さを教えてくれた。
そして「金で買えないものの価値は、金で買えるたいていの物を手にして初めてわかる」お金より大切なものは、たくさんあると思っている。人生、お金がすべてではない。それに気づいたのは、皮肉にもお金を手にしてからだ。よく聞く「お金よりも大事なものがある」というセリフ。そのセリフを口にする人の大半は、お金を持てないことへの開き直りだったりするのではないか。努力不足の自分を正当化するために、そう自分に言い聞かせているのだ。大金を手にしたこともないのに、金のある生活の中身なんてわかるはずがないんだ。観てない映画のレビューを書こうと思っても、書けないのと同じ。それを、実際にお金を持つことで気づけたのだ。金とは、決してなにかを買うためだけにあるのではない。金で買えないものの本当の素晴らしさに気づくために、金というものが存在しているのだ。今はそう思っている。
ROLANDの名言はいかがでしたか。何かを目指し生きると、うまくいかなかった時の挫折や試練、うまくいった時の達成感や充実感など、その場面、その場面でいろいろな感情が湧き上がります。うまくいった時ではなく、うまくいかなかった時にこそ、読んでほしい名言だと思います。ROLANDの生き方は恐ろしいほど前向きで、傲慢なほど自分中心だと思います。しかし、前向きに全てを受け止めて全力で生きているように思います。WITHコロナとなり、1年が過ぎようとしています。少し緊張感が緩み、惰性で生きてしまっているように思います。ROLANDを見習い、コロナにより余儀なく変化した、生き方改革、働き方改革、ビジネスモデル改革など、多くの、遂行しなければならない改革に全身全霊をかけて取り組みたいと思います。ROLANDの言う「素敵な勘違い」をしながら、さらに次のステージへ挑戦したいと思います。
2021/05/01 -
2021.04.01
辞める人、辞めない人
先日、仲良しのY若手経営者から手塩にかけて育てた社員が退職して、とても残念だと言う話を聞きました。彼の会社はSNS広告を販売している会社です。起業から7年、業績も毎年順調に伸ばし、社員数も27人に増えました。退職した社員は学歴も申し分なく、頭も良かったのですが、企業営業には向いていなかったので、Y氏はその社員のために独自の部署を作り、Y氏が直接指導していました。その社員からY氏に直接、「退職したい」と携帯に電話がかかってきました。起業からの7年、退職した社員は一人もいなかったとのことです。「電話口で泣いていた」と聞き、辞める社員にも相当な理由があるのかと思ったら、実は泣いていたのはY氏だったと。退職理由を聞くと、自己都合だと言い、必死で引き止めたが、すでに再就職先は決まっていて、引き止めることもできなかったようです。思わず、悔しくて、情けなくて、涙がこぼれ落ち、気が付いたら電話越しにわんわん泣いていたそうです。経営者としての辛い経験や試練は、経営者としての深みを増やしてくれることになります。この出来事を糧に成長してほしいものです。
私自身、社員が辞める辛い経験を数多く味わってきました。大昔、何度か引き止めた記憶がありますが、今は引き止めることはありません。また、一度辞めたいと言ってきた者は、だいたい辞めていくように思います。今まで何人もの社員が退職しましたが、誰しも急に退職したいと思うのではなく、それに至るまでにプロセスがあり退職を決意します。組織が大きくなると、二人だけの関係性ではうまく人間関係が築けていても、第三者が加わるだけで、簡単にその関係性が崩れてしまう場合も多々あります。私の場合、退社は相手の問題とし、理由はあまり考えません。どんなに退社理由を取り繕っても、社員には社員の人生があり、私には私の人生(目の前の仕事)があります。その都度前向きに受け入れて、今後に活かすことが大事なことなのかもしれません。大事なのは「立つ鳥跡を濁さず」という言葉があるように、辞め方には人としての美学が出ます。また、辞め方によっては、その後の人生もうかがい知れるので残念だと感じてしまうこともあります。
成長とは変化することです。小さな青虫が大きな青虫になることは、成長と言えません。なぜかというと、能力に大差がないからです。サナギに変化し、蝶になり、羽を広げることによって空を飛べるようになる。それが成長です。大事なのは、自分自身が変化するかどうかです。仕事も同じです。変化には勇気が必要です。なぜなら、一旦「蝶」に変化してしまったら、もう「青虫」には戻れないからです。成長するためには、昨日までの自分を捨てなければなりません。そうでなければ新しい自分に生まれ変わることはできません。人は変化することを嫌がります。自分を否定することが怖くて、自分を肯定しつつ成長できないものかと、もがいています。
世の中は変化しました。昨日まで正しかったことが、今日も正しいとは言い切れません。ついこの間まで「必要な人材」と言われていた人が「不必要な人材」に変わってしまう。これは世の中が変化してしまったからです。かのダーウィンも名言しています。生き残ったのは「強い種」ではない。「優秀な種」でもない。「変化した種」だけが生き残ったのだと。
私が考える、いくつかある「良い人材」の条件を挙げてみます。元気で明るい・真面目にコツコツ・営業が上手・頑固一徹で必死に頑張る・仕事が早いなどたくさんあります。これらの中で私の思う良い人材の筆頭は、「辞めない人」だと思います。どこへ行こうが、何をしようが、その社員の人生は大差ありません。理由はあれこれあると思いますが、今、目の前にあることを一生懸命にやらずして明るい未来はありません。自分の周りにいる人を悲しませて良いことは一つもないような気がします。私の成功ルールに「今、目の前にあることを一生懸命」「今、周りにいる人に喜んでもらう」というのがあります。どれだけ社員が成長するかは、どれだけ時間をその社員にかけるか、だと思います。新卒雇用をしている時、入社から半年間は社長懇親会と称し食事をしながら新卒と時間を共にしました。営業のできない新卒に対して私の役目は「信じること」「励ますこと」でした。あの時の新卒たちの嬉しそうな顔、楽しそうな顔、そして、辛そうな顔、涙した顔は、今でも私の宝物です。
参考文献 安田 佳生『採用の超プロが教えるできる人できない人 』サンマーク文庫,2006年
2021/04/01 -
2021.03.01
シニアクラブ総会挨拶
昨年12月の尼崎青年会議所現役・卒業例会での会長挨拶で、やたら緊張し真っ白になってしまい挨拶が一言も出てこない場面がありました。多くの後輩たちの前で、情けない姿を見せてしまい反省しきりです。あの後、医者に症状の相談をしたら「パニック障害の症状に似ていますね」との返答でした。「どんな時にでる症状ですか」と尋ねると、「生活習慣が大きく変化したり、大きな緊張やプレッシャーを感じた時に発症します」とのことでした。しかし、あの後、何度か他の団体で挨拶をする機会がありましたが、全く緊張感もせずスピーチがスラスラと出てきました。わかったことは、このシニアクラブの会長という役職は別格だということ。そして。この会長挨拶でしか、この症状はでないということです。この尼崎青年会議所シニアクラブ会長という役職は本当に重たいと身にしみて感じます。思えば歴代会長はこんな重責に耐えながら、素晴らしい挨拶をしていたのだと思うと、改めて頭の下がる思いです。故・竹瀬元紀歴代会長に言われた「挨拶は三ヶ月前からその日のために考えておけ。来るべき挨拶の日まで片時も忘れてはならん。挨拶は準備に尽きる」この言葉が胸に蘇りました。講演活動を生業にしているプロのセミナー家にスピーチの極意を尋ねると、「5分ぐらいのショートスピーチは原稿を作成して丸覚えします」とのこと。丸覚えの方法は20回原稿を見ながら声を出して読む、その後、10回原稿を見ずに声を出して話してみる、とのことです。今回は30回やってきましたよ(笑)還暦を迎えようとしている私が、まだこのような試練を与えていただいていることに、心から感謝したいと思います。そして、どんな場所でも、どんな状況でも、しっかりと挨拶ができ、皆さんから誇りに思っていただけるような会長になれるように精進したいと思います。
さて、コロナになり1年以上が過ぎようとしています。この1年間、いろんなことを考えました。この先、右へ行けばいいのか、左へ行けばいいのか?コロナは人生の大きな分岐点のような気がします。皆さんに質問したいのですが、大勢の人が右へ行こうとしています。皆さんは右、左、どちらの道を進みますか?右へ行く人が多いなら自分も右へ行くと言う人、もしくは、多くの人が右へ行くなら、自分はあえて左へ行くと言う人。それぞれの意見があると思います。残念ながらこの2つの答えは同じです。進む方向は違えど、選択の基準が自分以外の人で決めているからです。この答え以外に、もう一つ答えがあります。それは、自分以外の人が、どちらの道を選ぼうが、その方向へ行く人が大勢いたとしても、自分の基準で選ぶという答えです。自分の基準で選ぶことができる人は「自分の中に確固たる軸」があります。自分の中にある確固たる軸、それを「在り方」と言います。コロナ禍である今は混迷の時代だと言えますが、一寸先を読むことが難しい荒波の中で周りの人がどう進むかを頼りに人生を決めるのは危険だと思います。こんな時、何よりも頼りにしなければならないのは、自分の意思であり、自分自身の基準、つまり「在り方」だと思います。人は2種類に分類されます。「自分の人生に誇りを持って生きている人」もう一つは「自分の人生を満足できずに生きている人」です。この違いは自分の「在り方」を持っているか、いないかだと思います。「在り方」には色々な定義があります。「心の姿勢」「自分のルール」「自分との約束」「自分のスタンス」など。全ての定義に当てはまるのは、ここで曲げたら自分を嫌いになるということです。混同されがちですが、「生き方」と「在り方」は違います。「生き方」は人生の選択、「在り方」は選択の基準。とは言っても私自身、何となくの「在り方」はありますが、確固たるものまでは至っていません。だからよく迷いますし、確固たる「在り方」を身に付けたいと考えています。そして、そのために最も必要なものは「答え」ではなく、「問い」ではないかと思います。「在り方」は歩んできた人生によって、これから歩んでいく人生によって、違うように思います。「どんな自分になりたいのか」「どんな生き方をしたいのか」答えは全て自分の中にあります。コロナの混迷の時代だからこそ、揺るがない「在り方」が必要だと思います。
皆さんも自分自身に「どんな自分になりたいのか」「どんな生き方をしたいのか」問うてみることをお勧めします。きっと、揺るがない「在り方」を導きだせると思います。私がコロナ禍で一番、自問自答したのは「尼崎シニアクラブはどうあるべきか」「会長として自分はどうあるべきか」でした。
2021/03/01