Column 社長コラム
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2023.02.01
鎖の会 2022
2022年は、皆さんにとってどのような1年だったでしょうか?私はコロナ禍でたくさんの事に気付かされた1年でした。世界と日本の対策や報道の違いなど、残念ながら日本の弱い部分を知りました。同時に、本当に素直な国民性であることも。だからこそ本物を見抜く力、真実をリサーチする能力が必要な時代だと思います。私の2022年は、「やりたいことをやり尽くす1年」にしたいと多くの事業を始めました。しかし、コロナ終息の時期が延び、思い通りにならないことも多い年だったように思います。中々、コロナが終息しないので、途中から2022年は2023年のスタートダッシュを決めるための準備の年としました。来年こそは、コロナが終息し、素晴らしい1年になることを願います。
さて、今回は、私が会長を務める尼崎青年会議所(以下「尼崎JC」)の「鎖の会」について筆を執ります。
「鎖の会」とは一体何か、発足のきっかけ、名前の由来等について書かせていただきます。
「鎖の会」とは、19年前に鴻池祥肇先輩が作った会です。
その当時、高岡伸一さんという、我々世代が尊敬してやまない先輩がいらっしゃいました。それは、それは男らしくて、素晴らしい先輩でした。その高岡先輩が19年前、経営苦により自らの命を絶ちました。高岡先輩と鴻池先輩の関係は、仕事上、鴻池組の名義人が高岡組という関係で、高岡先輩の結婚式の仲人は鴻池先輩が務め、鴻池先輩の結婚式の仲人は高岡先輩のおじいさんが務めました。明治、大正、昭和と続く、切っても切れない間柄でした。鴻池先輩は高岡先輩の死を知り、「貸せるお金はないけど、話ぐらいは聞いてやれたのに…、何も死ぬことはなかった」と悔やまれました。「鎖の会」は、その年の12月29日、鴻池先輩が東京にて仕事納めをして、尼崎へ帰ってくる日に始まりました。毎年12月29日に集まりが開催され、尼崎青年会議所の現役メンバーが多く参加します。
あれから19年が経ちましたが、数年前より、「鎖の会」に大きな変化が続いています。2018年12月末、会の創設者の鴻池さんが亡くなりました。奇しくも葬儀は12月29日「鎖の会」当日でした。葬儀は麻生太郎氏が葬儀委員長を務め、二階さんなど政界の大物も多く参列されていました。この葬儀に、竹瀬、森本、武本歴代シニア会長と共に参列し、鴻池さんをお見送りしました。その足で「鎖の会」へ参加し、多くのメンバーと鴻池さんの思い出話をしたのを覚えています。その翌年、2019年12月末には鴻池先輩に続き竹瀬さんが亡くなりました。葬儀はまた奇しくも2019年12月29日「鎖の会」当日に行われました。葬儀は森本先輩の会社で行われ、武本さんと私で参列しました。4年前鴻池先輩、3年前竹瀬先輩が「鎖の会」当日に葬儀が行われました。2020年の「鎖の会」はコロナにより中止にしました。2021年は高岡さんが亡くなって19年も経ち、「鎖の会」を創設した鴻池さんも亡くなったので、これを機に「鎖の会」を辞めようか、そんな風にも考えましたが…。ご子息の鴻池肇一さんに「鴻池さんの作った会だけど続けさせてもらう」と断りを入れて、私の一存で尼崎JC出身の政治家の慰労会をすることになりました。その理由は、昔のように自民党いや鴻池祥肇、一択の時代は終わり、公明党、維新などの仲間も増えてきました。選挙でバチバチやっても、年の終わりのこの「鎖の会」には、皆さんに集まってもらい、矛を収めて、同じ尼崎JCの名の下に一致団結してもらいたいという思いからです。この「鎖の会」の、今後については、私の次の会長に委ねたいと思います。
「鎖の会」この名前の由来ですが、一番最初に行われた「鎖の会」の冒頭挨拶に鴻池先輩がおっしゃった言葉です。「JCは毎年、新しい理事長が誕生し、その理事長を中心に輪っぱをつくる。毎年、毎年、1つずつの輪っぱが繋がり、やがて鎖となる。俺たちは命の輪っぱを1つずつ繋いだ仲間。互いに助け合える関係でありたい。1年の終わりに無事に過ごせたことを共に感謝し、共に喜び合おう」と。「鎖の会」創設の思いを話され、この会を「鎖の会」と名付けられました。もし、この会を「高岡さんを偲ぶ会」という名前にしていたら、こんなに長くこの会は続かなかったように思います。改めて、鴻池先輩の偉大さ、凄さを実感しました。
2023/02/01 -
2023.01.01
安倍晋三2・世界の真ん中で咲き誇れ
「菅義偉 弔辞」を要約
七月の、八日でした。信じられない一報を耳にし、とにかく一命をとりとめてほしい。あなたにお目にかかりたい、同じ空間で、同じ空気を共にしたい。その一心で、現地に向かい、そして、あなたならではの、あたたかな、ほほえみに、最後の一瞬、接することができました。しかし、安倍総理…と、お呼びしますが、ご覧になれますか。ここ、武道館の周りには、花をささげよう、国葬儀に立ちあおうと、たくさんの人が集まってくれています。二十代、三十代の人たちが、少なくないようです。総理、あなたは、今日よりも、明日の方が良くなる日本を創りたい。若い人たちに希望を持たせたいという、強い信念を持ち、毎日、毎日、国民に語りかけておられた。そして、「日本よ、日本人よ、世界の真ん中で咲きほこれ」これが、あなたの口癖でした。次の時代を担う人々が、未来を明るく思い描いて、初めて、経済も成長するのだと。いま、あなたを惜しむ若い人たちがこんなにもたくさんいるということは、歩みをともにした者として、これ以上に嬉しいことはありません。
平成十二年、日本政府は、北朝鮮にコメを送ろうとしておりました。私は、当選まだ二回の議員でしたが、「草の根の国民に届くのならよいが、その保証がない限り、軍部を肥やすようなことはすべきでない」と言って、自民党総務会で、大反対の意見をぶちましたところ、これが、新聞に載りました。すると、記事を見たあなたは、「会いたい」と、電話をかけてくれました。「菅さんの言っていることは正しい。北朝鮮が拉致した日本人を取り戻すため、一緒に行動してくれれば嬉しい」と、そういうお話でした。信念と迫力に満ちた、あの時のあなたの言葉は、その後の私自身の、政治活動の糧となりました。その、まっすぐな目、信念を貫こうとする姿勢に打たれ、私は、直感しました。この人こそは、いつか総理になる人、ならねばならない人なのだと、確信をしたのであります。
安倍総理。日本国は、あなたという歴史上かけがえのないリーダーをいただいたからこそ、特定秘密保護法、一連の平和安全法制、改正組織犯罪処罰法など、難しかった法案を、すべて成立させることができました。どのひとつを欠いても、我が国の安全は、確固たるものにはならない。あなたの信念、そして決意に、私たちは、とこしえの感謝をささげるものであります。国難を突破し、強い日本を創る。そして、真の平和国家日本を希求し、日本を、あらゆる分野で世界に貢献できる国にする。そんな、覚悟と、決断の毎日が続く中にあっても、総理、あなたは、常に笑顔を絶やさなかった。私だけではなく、すべてのスタッフたちが、あの厳しい日々の中で、明るく、生き生きと働いていたことを思い起こします。何度でも申し上げます。安倍総理、あなたは、我が日本国にとっての、真のリーダーでした。総理、本当に、ありがとうございました。どうか安らかに、お休みください。
<令和4・9/27 前内閣総理大臣、友人代表 菅義偉>
日本は20世紀の終わりから、平成の大不況という20年以上続くデフレスパイラルに入りました。そして、東京オリンピックが決まり、やっと光が見えてきた2020年、コロナで経済のほとんどがストップしてしまいました。これを不運だと片付けてしまうのは簡単なことですが、見方を変えると「何かに気づけ」という先人からのメッセージでもあるような気がします。「迷ったときこそ、原点に戻れ」とよく言われていますが、私たち日本人が忘れかけているものの中に、未来のヒントが隠されているのではないでしょうか。私たち日本人の先人は、敗戦後、焼け野原の中から奇跡と言われるような経済復興を果たしました。憲法が「変わり、それまで信じてきた日本人に流れていた歴史や哲学をほとんど否定された中からのスタートにもかかわらずです。しかし、高度経済成長が終わった頃から、日本の方向性は変わってきました。復興を成し遂げた世代は次第に引退し、その土台の上に立って、ぬくぬくと育てられた次の世代はバブルの崩壊あたりから、完全に方向性を見失ってしまいました。私は政治家ではありません。安倍総理と住む世界も、戦う場所も違いました。しかし、日本の国と日本人を愛する気持ちは同じだと思います。私はこの素晴らしい国がいつまでも平和で、人々が幸福に暮らしていける国であってほしいと心から願います。「日本の素晴らしさ」「日本人の美しさ」を今こそ取り戻し、「世界の真ん中咲き誇れ」と日本にエールを送りたいと思います
2023/01/01