Column 社長コラム
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2020.07.01
コロナ ①
2020年1月、中国武漢から始まったコロナ感染症は、2月韓国、3月ヨーロッパ・アメリカ、4月日本、5月ブラジル・メキシコへと、感染者を世界中に広げ、日々多くの国で感染者数を増やし続けています。今はコロナがクローズアップされていますが、これまでの人類は多くの感染症と戦ってきた歴史があります。ここ50年に発症したウィルスはエボラ、サーズ、マーズ、エイズ、インフルエンザなど多数ありますが、WHOや各政府が承認したワクチンはまだありません。もう少し歴史を遡ると1918年に発症したスペイン風邪はその時の世界人口17億人のうち、5億人に感染し、5千万人が死亡しました。これは第一次世界大戦により兵士が全世界にウィルスを広げてしまったからだと言われています。発症から収まるまでに3年間を有し、3波に渡って襲ってきました。それ以前も、何百年も前からコレラ、チフス、ペストなどのウィルスと人類は戦い続けています。
4月初旬、日本は非常事態宣言が発せられました。飲食店やデパードなどほとんどの店が非常事態宣言により自粛休業となりました。これにより私自身の生活も一変しました。コロナ以前は関西に住みながら、東京、九州、名古屋、そして海外と月の半分以上を出張して会議、商談、懇親会などで忙しく動き、食事もほぼ外食、まさに家には寝るために帰るという生活を送っていました。約1ヶ月半の自粛生活は出張や毎晩の会食は中止となり、自宅で家族とともに食事をし、出張は取りやめて会議はリモート、商談もリモートで済ませました。まさに仕事のやり方が変わり、生活が変わり、人生を変えようとしています。コロナで大変な状況の中、申し訳ない話ですが、毎晩、家で家族と食事をし、何気ない家族との語らいに喜びを感じ、以前の忙しすぎる日常では考えられないギフトをいただいたように感じています。会社の運営は、移動を自粛、集まっての会議も自粛、社員や取引先との懇親会も自粛し、リモートのミーティング、会議、商談と変わりました。すると、それまでの移動の日々が嘘のように時間が余り、それにより考える時間を多く取れるようになりました。それまで当たり前だった仕事のやり方が、コロナにより気づき、もう元へ戻れない仕事のやり方となりました。新しく導入したリモート会議は、今までの会議より多くの社員とコミュニケーションが取れるようになり、一層社員の仕事ぶりを明確にしていまい、私も真剣に社員と向き合う仕事ぶりが必要となりました。多分業績は上がると思いますが、私にとって、社員とって、良いような悪いような話となりました。
私自身、コロナによって考え方や生活習慣、そして人生そのものが変わっていくことを感じていますが、日本中の多くの方々が、このコロナによって厳しい人生を生きなければならなくなったように思います。そんな方々に芸能界から激励のメッセージが届いていたのをテレビで観て心動かされたので紹介します。『今まで、当たり前のように身短にいた人が、突如いなくなってしまう。そういった経験をされた方は僕以外にもいると思います。今まで当たり前のようにあった世界が急に変わってしまう。今はそういう時代かもしれませんね。ただね、暗闇は暗ければ暗いほど、小さな光だって輝いて見える。今まで気づかなかった小さなこと。当たり前のようにあった日常が実はすごく大切なことだったんだね。自分にとってどれだけ素晴らしい人が周りにいたんだろう。素晴らしいことが周りにあったんだろう。とても考えさせられます。今までは気づかなかった小さな光、それを皆さんが信じて、それが大きな光となって照らしてくれるように、そして1日も早い夜明けが来るように、みんなで協力しあって頑張れればと思っています。神は耐えられない試練を人に与えない。僕はこの言葉をいつも信じて生きていきます。何かあるたびに強くなってきたから、これを乗り越えたときは皆さんもきっと強くなっているんだろう。音楽家として微力かもしれないですが、少しでも力になれれば。1日も早い夜明けが来るように頑張りましょう。皆さんの健康と安全を心より祈ってます。がんばろうね。~X・JAPAN YOSHIKI~』
コロナは長期化するでしょう。経済的な打撃は大きく計り知れません。私たちが、今考えるべきは「元に戻す」ではなく新たな価値観や概念を「一から作り直す」ことではないでしょうか。今までの時代は、右肩上がり、大きいこと、たくさん売ること、これらを良しとしてきました。品質も、もう十分です。デジタルカメラの画素数はまだ増やすのでしょうか。盛れるし、シワも消せる、もうお腹いっぱいです。昔、あるコンサルに言われたことがあります。「年商はどれくらい?従業員数は何人くらい?」それに答えると、「もっとやれるよ、もったいない、◯◯億くらいすぐいくよ」と。これから始まるWITHコロナの時代は、昭和の時代に活躍した社長の価値基準やステータスを覆して、新たな価値基準へと塗り替えていくように思います。私はこの新たな時代を前向きに千載一遇のチャンスと受け止めようと決めました。過去の思い込みに終止符を打ち、数が大きいことが偉い、立派、成功という思い込みを捨てることから始めていこうと考えます。「大富豪は大恐慌からおこる」
2020/07/01 -
2020.06.01
追悼・ノムさん 野村克也②
「勝ちに不思議な勝ちあり 負けに不思議な負けなし」
この言葉は野村克也氏の書籍に度々出てくる、私の最も感銘する言葉です。『勝因、敗因という言葉があるように、成功しても失敗しても、なんらかの原因があるものだ。しかし、長く勝負の世界に生きていると、ラッキーとしか言いようのない、勝利を拾えることがある。タイムリーエラー、走塁ミス、押し出し四球…など。相手のミスや自滅で勝ちが転がってくるものが、それに該当する。ところが、負けたときには明らかに理由が存在する。負けるべきして負けているのだ。準備は万全だったか?初歩的なミスはなかったか?など、チェックすべきことは山ほどある。「負けに不思議な負けなし」負けはアンラッキーだけで片付けていては、いつまでも勝つことはできない。私は負けたときはなぜ負けたのか、どんな問題があったのか、それを必死に考え勝利に転化することを心がけてきた、それが弱者の戦い方。勝って教えられることより、負けて教えられることの方が断然多いのである。』
私自身、2014~2018年まで数々の事業に投資をし、失敗を繰り返しました。過去の失敗事業として、食医食料理教室、焼鳥屋、ONE PIECE&バカラ、ブックカフェ、イタリアンレストラン、コスプレスタジオ、アイドルステージ、芸能プロダクション、洋菓子店、キャラクターカフェ、版権ビジネス、介護事業、など数えればきりがありません。当時の私は、その事業の勝ち負けよりも、やってみたいビジネスをやる、そんな事業欲に取り憑かれていました。私を含め多くの経営者は「いかに勝つか」の答えを導くために、勝つために戦略を積み上げていきます。どちらかというと、攻撃型の人が経営者になる事が多いように思います。しかし、何度も何度も失敗して、その失敗の経験から掴んだ答えは勝つ事も重要だが、負けない事の方がもっと重要だと思うようになりました。負けない経営を突き詰めていくと、負けには負ける理由が明確にあることがわかりました。まさに「負けに不思議な負けなし」という言葉通りだと思います。企業経営には社長の人となりや性格、人格、人間性などが色濃く反映されます。成功する事業、失敗する事業、何が違うのか?社長の能力、時代の流れ、今の自分のポジションはどこにいるのか?など、すべて社長次第と言っても過言ではありません。
2020年、これから始まろうとしているコロナ大恐慌では、まさに経営者の真価が問われるように思います。多くの経営者から、「どう乗り越えるのか?」を聞かれます。私はいつも「あきらめること」と答えます。「あきらめること」というのは、コロナに対して、「無理です」「勝てません」と白旗を上げることではなく、自分のできること、できないことをしっかり自覚する。今、目の前の敵であるコロナ環境下で、できることを考え、向かっていくことだと思います。仕事や人生、この世のあらゆることに通じる話ですが「すべてに勝つ」必要はないし、そんなことができる人はいません。頑張ってきたけど、ここは捨てようという「あきらめ」、すなわち取捨選択が勝ちや成功につながっていくように思います。「すべてを守ると、すべてを失う」この言葉通り、何を捨てるのかを決めて、すぐに捨てる勇気が必要だと思います。
コロナについては、来月号で詳しく書こうと考えていますが、すぐにやろうと思っていることを書かせていただきます。①ちょっとだけでも成長する、毎日が同じではダメ、毎日少しずつでいいから工夫や勉強をする②少しでもいいから右肩上がりのトレンドにする、必要なもの以外はすべてを捨て身軽になる③数字はウソをつかない、数字を用い、今自分がいる場所を把握する④いつまでに、どこに行くのか(目標)を決定し、今できることを一つずつやる(計画)⑤一番得意なことで、勝てそうな戦いをする、できそうなことを全力でやる。
緊張感のある毎日が続きますが、皆様健康を最優先に、収束を目指して、負けずにがんばりましょう。
2020/06/01 -
2020.05.01
追悼・ノムさん 野村克也①
私の人生に大きな影響を与えたプロ野球選手を挙げるとすると、一番に野村克也氏が挙げられます。面識はありませんが、彼の著書の大ファンでした。著書には野球の技術論だけではなく、野球という勝負の世界で生きてきたからこそわかる人生訓が満載されています。人として生きていく術、経営者の指針になるようなことなど、わかりやすく、たくさん書かれていています。何度も読み返し、人生や仕事を考える上で、参考にした事が度々ありました。野村克也氏の文章からは、当たり前ですが、数多くの本を読み、いつも「勝つために」を考えていることが、窺い知れます。奥様の野村沙知代さんに先に旅立たれ、寂しそうな姿をテレビで拝見し、陰ながら頑張って生きて欲しいと応援していました。しかし、願い叶わず亡くなられました。心からお悔やみ申し上げます。
野村克也氏は1935年生まれ・京都府立峰山高校卒・1954年テスト生として南海ホークス入団・入団3年目レギュラー入り・4年目本塁打王・1965年捕手として世界初の三冠王・MVP5度、首位打者1度、本塁打王9度、打点王7度、ベストナイン19度、ゴールデングラブ賞1度・数々の偉業を成し遂げ不動の正捕手として南海の黄金時代を築いた・1970選手権監督に就任・1973年パリーグ優勝・1989年野球殿堂入り・1980年45歳で現役引退する日まで「生涯一捕手」を貫く・通算成績本塁打数657本・打点1988点(何れも王選手の次で歴代2位)・選手として3017試合出場(歴代2位)・監督として3204試合出場(歴代3位)・現役生活27年・著書多数(プロ野球界ではNO.1)・野球界では数少ない文化人枠の人。
私のバイブルである『小事が大事を生む』という本を紹介します。この本には小事や細事を感じる力がいかに大事であるかが、明確に書かれています。『感じる力、すなわち感性というものは、人間が生きていくうえで大切な要素の一つだ。感性がなければ視野が狭くなる。些細なことには気づくことはないだろうし、結果的に物事の本質を見失う可能性がある。感性の乏しい人間、それすなわち鈍感な人間。「小事が大事を生む」という考え方を備え、わずかな変化も見逃さずに、すぐに対応できる選手というのは必ず成長する。長嶋茂雄や王貞治、あるいは落合博満や松井秀喜はその最たる選手たちだと思う。彼らに共通して言えることは、同じ失敗を繰り返さない、または失敗を繰り返さないようにするための感性を持ち、卓越した修正能力を持っていた。同じ失敗を何度も繰り返す選手、つまりは「鈍感」な選手は、どこまでいっても二流止まり。そう断言しても言い過ぎではない。だから私は思うのだ。「人間の最大の悪は鈍感である」感じる力を身につけることは、決して難しいことではない。理想を持って、その理想にいかに近づこうとするか。そのための意識付けと努力ができるかどうか。それだけの話である。野球では、投げる、打つ、走るといった技術以外で大事なものがある。それは、「感性」「思考(頭脳)」「行動力」だ。普段の生活も、常に連動するその三つの要素があって成り立っている。「感じる力」が備わってはじめて、人は考える。「考える力」が生まれて鍛えられると、人は脳から指令を受けて「行動」に移る。当たり前のことかもしれないが、人はそれを繰り返す。逆に感じることができなければ、考える力は生まれてこない。イメージあるいは、夢や希望を抱くことができない。考える力がなければ、当然ながら感じる力も生まれない。感性が乏しい、要するに鈍感になってしまう。
私自身は、小さなことが気になるがゆえに、「感じる力」が養われていった。その時々の状況を見て、その場の空気を感じ、「感性」は磨かれていった。野球においては一球一球の積み重ねが確かな成果を生む。小さなことにこだわったから、大きなものを手にできたと思っている。つまりは「小事」「細事」が「大事」を生んだ。私の人生は、まさにそこが原点だと思う。世の中の多くの指導者や会社の経営者、すなわちリーダーの多くは「大局を見よ」、「木を見ず森を見よ」と言う。それが成功するための秘訣、あるいはリーダーとしての理念だという。組織をまとめ上げるトップたるもの、小さなことを気にしすぎてはいけない。リーダーである以上は、組織全体を見渡して明確な方向性や将来のビジョンを示し続けなければいけない。無論、その通りだと私も思う。ただそれでも、成功の中にあるプロセスという観点から考えれば、そこで生じる「小事」「細事」を疎かにしてはいけない。』
ここに抜粋した文章は、特に私が共感したところです。経営者は色々なタイプの人がいるので、「小事が大事を生む」という考え方に賛同できないという方もいるでしょう。しかし、仕事や人生で成長したいという考えを持っている方は賛同出来る方も多いのではと思います。振り返ると、過去に色々なコミュニティーに属し、多くの方々と接する機会がありました。そのときは色々なタイプの人がいるのだと、その程度に思っていましたが、最近はこの違いが人生の明暗を分けるほどの大切なことだと認識が変わりました。小事や細事にこだわっているからこそ理解できる考えの「深さ」「細かさ」、また、決断し行動するときの「スピード」「大胆さ」などが違っていたように感じます。これからも「小事が大事を生む」考え方を真ん中に置いて、自分自身の生き方、会社の成長、組織のあり方などと向き合っていきたいと考えています。
参考文献
野村 克也著『「小事」が大事を生む』扶桑社, 2015年
2020/05/01
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2020.04.01
矢野 燿大3・予祝
阪神タイガース・矢野監督は昨年「予祝」をチーム改革に取り入れました。「予祝」とは、先に喜び、先に祝うことで、その現実を引き寄せる、日本人が昔からやっていた夢実現法で す。各地に伝わる「夏祭り」は秋に実る稲が豊作だと決めて、楽しみ、喜ぶことで、豊作を 実現する習慣でした。昨年、矢野監督は笑顔で選手に声をかけ、全身で喜び(矢野ガッツ) を表現し、チーム指揮官こそが夢を叶えるためにワクワク楽しむことが必要だと「予祝」を 実践しました。しかし、結果的には何とか A クラス入りを果たせた苦しいシーズンになりました。
2019 年沖縄キャンプインで矢野監督は予祝を実践、「2019 年阪神タイガース優勝しまし た。ありがとうございます」という挨拶から始まりました。しかし途中、首位巨人に 10 ゲ ーム以上の差をつけられた時は、選手に「優勝した・予祝」と声をかけることに、ためらい を感じたそうです。その時に選手達に観せたのが『宗一郎くん』という文字動画でした。
宗一郎くんは小児がんで 8 歳で光の世界に帰りました。最後の3ヶ月は病院ではなく自 宅で過ごしました。ご両親は元気になって欲しくて、いろんな機械を購入して試したそうで す。でも、今から思えばもっともっと一緒に楽しんであげればよかった。日に日にやせ衰え、 痛みに苦しむ息子を看病することはとても辛かった。居てくれるだけでいい、生きていてく れるだけでありがたい、辛い痛みの中でもできるだけ、私たちに笑顔を見せようとしていた 子でした。「お母さん、ごめんね」「もっと元気だったらお母さん、お父さんも疲れないのに ね」「お母さん、僕もっと生きたいよ」病状が相当悪くなった日、病院に連れて行く車中で・・ あまり意識が定かでない宗一郎はこう言うんです。「信じ合って、助け合って、分かりあっ て生きていくんだよ」「苦しい時や悲しい時ほど、笑うんだよ」「自分を責めることが一番い けないんだよ」などと強い口調で私たちに言うんです。病院での最後の時・・たんが絡んで 声にならない声で・・最後の一声が・・「ありがとう」それまでは全身の痛みで抱くことが できなかったので、最後は力一杯母親に抱かれながら静かに息を引き取りました・・。 「みんなと一緒に学校へいきたいな」「お父さん、お母さんと美味しいラーメン食べたいな」 「お外で遊びたいな」「髪の毛生えてきてほしいな」「元気になりたいな」「早くお父さん、 お母さんを安心させてあげたいな」「まだ死にたくないな」「大人になりたいな」これらは限 られた時間を生きている小児がんの子供たちのしたいこと。いつかどうしても叶えたいと 思っている夢だそうです。僕たちが何気なく過ごす 1 日は、昨日亡くなった誰かが、どうし ても生きたかったかけがえのない一日。過去は英語で past 、未来は英語で future、現在= 今は英語で present・プレゼントと言います。生まれてきたということ、生きているという こと、今神様からの素晴らしい贈り物を抱きしめてみてください。あなたはあなたが思って いる以上に素晴らしい・・・。
動画を観終わった後、矢野監督は「俺たちは子供の頃からの夢だったプロ野球の世界で野 球ができている それだけでも幸せなこと もっともっと野球を楽しもう もっともっと 生きていることを喜ぼう」と。この後、終盤の快進撃が始まりました。
一昔前のプロ野球界では⻭を見せたら殴られる、苦しいから結果が出る、恐怖で選手を動 かす、こういった風潮が当たり前でした。しかし、矢野監督はこの風潮に真っ向から異を唱 え「夢を語り、手本を見せる、選手は尊敬と憧れで一番動く、その場合は選手が勝手に育つ ようになる」そうです。矢野監督に今年のスローガン「itʼs 笑タイム・オレがやる」につい て聞くと「子供達に夢を尋ねると、自分の夢を何個も、子供によっては何十個も言うんです。 スーパーマーケットのレジ打ちのおばちゃん。工事現場で旗振ってるおっちゃん。人から偉 いと思われること、人から立派だと思われることだけが夢ではない。大人の表情を見て夢は 決まる。僕らが疲れた姿を見せることはよくない。大人の表情は子供の夢につながる」「優 勝を何年も続けて、その先に何があるのか。野球界に魅力がもっと必要、ただ勝つだけの試 合を観せてそれでいいんかな。今年のスローガンはただ勝つだけの阪神タイガースではな い。itʼs 笑タイム、一番喜んでやろう、一番楽しんでやろう、楽しんで勝ってやろう、そし て、その先には、子供たちがやる野球を、楽しむ、喜ぶ野球に変えたい、子共たちを笑顔に す る 。」 そ ん な メ ッ セ ー ジ を 込 め た と の こ と で し た 。「 優 勝 は 当 た り 前 。 優 勝 す る に は 1 4 0 試 合のうち 80 勝しなければならない、しかし我々の目標は負ける 60 敗でいかに感動させる かにこだわる」。
人間は1億円の宝くじが 100 万回連続で当たる確率で生まれてくる。生まれてきただけで も奇跡。人は人生を楽しむために生まれてきた。人生はお祭りだ!いつも矢野監督との楽しい会話で活力をもらっているように思います。今年の阪神タイガースは期待大だと思います。
参考資料 宗一郎くんのメッセージ URL:https://youtu.be/dzICgnz8xKs
2020/04/01 -
2020.03.01
矢野燿大2・チャレンジ
阪神タイガース・矢野燿大監督の後援会を立ち上げ4年が経ちました。設立当初、どんな後援会を作ればいいのか、どんな活動をすれば盛り上げることができるのか、そんなことを よく考えていました。行き着いた答えは、個人会員として応援していただける会員は有難い ことですが、生涯、矢野燿大の支えとなる法人会員も集めたい、その法人会員と矢野監督と の繋がりを深めたい、と考えました。忙しい中、矢野監督には毎月 1 度日程をいただき後援 会主催で法人会員との懇親会を開催しました。ファンとして遠くで見ていた時は良かった けど、実際に身近で話をしたり交流をすると、その人の、人となりの問題で応援する気持ち がなくなったという話はよくある話です。しかし、矢野監督の場合はどんなにその日が試合 後で疲れていようが、参加人数が多かろうが、いつも笑顔で接するサービス精神、経営者目 線での話が盛り上がる等、参加した皆さんがより一層ファンになってくれます。プロ野球選 手〜監督と華やかな世界で活躍してきたのに、偉そうなところや非常識なところが微塵も 見当りません。身近でお付き合いをさせていただき、いつも見習わないといけないなと、感心させられます。
この 4 年の軌跡を振り返ると、2016 年金本監督の元、バッテリーコーチ就任、2018 年 2 軍監督就任・優勝、2019 年 1 軍監督就任・最下位から A クラスへ。2 軍監督の頃から進化 が始まり、今も尚、進化し続けているように感じます。元々、監督には教師になりたい、と いう夢がありました。2 軍監督という役割は、元来の勉強好き・指導好きという性格と適合 しました。その上、元々考えていた「超積極的」野球理論を試す絶好の機会となり、毎日が 楽しくて仕方なかったようです。結果、その年にタイガースは 2 軍優勝を果たすことがで きました。監督の喜ぶ姿を見て、応援する私たちもとても嬉しかったことを覚えています。 監督との会話で、いつも感心させられるのは、選手を指導する熱心さや情熱です。さすがだ な、と思えたことをいくつか紹介させていただきます。
まず「伝える力」です。いつも選手たちにどう伝えるかを考え、言葉を大事にしています。 プロになるような選手たちは、当たり前ですがプロに入るまでは一流の道を歩んできてい ます。その一流にあれこれ技術的な指導をしても心の扉は開きません。選手たちの心の扉を 開く合言葉があると監督は言います。「言葉は大事」「夢は叶う」「比べるのは昨日の自分」 矢野監督が「言葉は」というと選手が「大事」、「夢は」というと「叶う」、「比べるのは」と いうと「昨日の自分」。毎日毎日、この合言葉を監督と選手が繰り返していると、選手たち は心を開き、前向きに言葉を受け入れ、真摯に自分と向き合うようになるといいます。これ こそが成⻑の第一歩です
次に「超積極的」です。監督は少年野球のコーチをしている時に、初球を見送る子供によ く声をかける言葉がありました。「監督に怒られない野球をやって楽しいか?どんな球打ち たい?」と尋ねます。少年は「ヒット打ちたい」と答えます。監督は「ヒットでええんか?」 というと、少年は「ホームラン打ちたい」と。監督は「そうやろ、それやったら初球から思 いっきり振ってホームラン打ってこよう」とアドバイスします。2 軍監督時代、選手に「27球で試合が終わってもいいから、初球から積極的に打っていこう」と声を掛けました。監督 は「データ的にも初球がヒットになる確率は一番高い。初球から振ろうと思うと打席に立つ 前にあれこれ考え、準備をしてバッターボックスに立つ。何気なく打席に立たない」と言い ます。盗塁についても、「サインが出なくても、積極的に走っていい、むしろ監督がノーサ インで勝てる野球が理想」と言い切ります。2 軍監督時代、初球凡打、盗塁失敗を一切咎め なかった、しかし、チャレンジしなかった選手にはチャレンジの大切さを説きます。その結 果、選手はのびのびと野球ができるようになり、結果として、盗塁日本一記録を更新して優 勝を手にします。監督は言います。「増富さん、盗塁日本一の記録を更新しましたけど、盗 塁失敗も一番多かったんですよ。でも、その失敗数こそ誇りに思っています。なぜかと言う と、失敗数こそがチャレンジの数なんです。選手たちが、それだけ多くチャレンジしたこと。 あの時は盗塁が苦手な選手もチャレンジしていましたし、盗塁しようと思うと、あれこれ準 備し成功するために考えるんです。考えること、準備すること、これこそが、プロとして一 番大事なことだと思うんですよね」
矢野監督とのお付き合いを通して、私自身も社⻑としてやるべきことが芽生えてきまし た。社⻑として社員を今までのイメージで決めつけていないか?社員にチャレンジできる 環境を作っているのか?チャレンジして失敗しても咎めない、チャレンジの重要性を説く。 社員に何をするのか、どんな方法でと、やり方ばかり言っていることを反省し、仕事にどん な心で向き合うのか、心のあり方こそが大事なことだと、改めて一から始めたいと考えてい ます。自分自身もそれなりにやってはいるけど、何となく過ごしている自分がいるような気 がします。「何気なく過ごさない」「もっと全力で楽しんで生きる」。これを今年のテーマに してやっていこうと思います。
2020/03/01 -
2020.02.01
レジェンド
尼崎青年会議所シニアクラブには、私が憧れる3人のレジェンドがいました。竹瀬元紀・鴻池祥肇・森本清という方々です。しかし、森本先輩を残し、一昨年末に鴻池先輩、昨年末に竹瀬先輩が亡くなってしまいました。奇しくも、おふたりの告別式は12月29日。毎年3人のレジェンドが集まる「鎖の会」という会の開催日でした。一昨年の鎖の会では、鴻池先輩を見送り、竹瀬・森本先輩と共に鴻池先輩のことを語り、昨年の鎖の会の日には竹瀬先輩を見送り、森本先輩と共に竹瀬先輩のことを語りました。森本先輩曰く「寂しがり屋の鴻池先輩が竹瀬先輩を呼びに来た。今は2人で年末にオレを呼びに来る相談してるわ」と笑えない冗談をおっしゃっていました。
レジェンド3人の共通点は心を鷲掴みにされるような素晴らしい挨拶をされるところ、義理・人情を大事にするところです。3人の出会いは尼崎青年会議所でした。最初に入会したのは竹瀬先輩。その数年後、鴻池先輩が入会してきます。竹瀬先輩曰く「鴻池という名前、早稲田大学弁論部という肩書き、それ以上に入会スピーチが素晴らしかった。竹瀬元紀は鴻池に惚れてしまったんや」と。酒を飲むといつも話されていました。その後、竹瀬先輩は「鴻池を会頭にする」という使命を心に誓い、二人三脚で日本青年会議所会頭の座を獲りにいくことになります。その数年後、森本先輩が入会。竹瀬先輩と同じ使命を誓い、鴻池先輩のセクレタリー(鞄持ち)をすることになります。
会頭への道は簡単なものではありませんでした。麻生太郎会頭年度に次年度井奥会頭が決定し、鴻池先輩は井奥会頭の元、副会頭となりました。当時、麻生会頭から「井奥の次は大阪と決まっているから、爪を伸ばすな」と釘を刺されました。尼崎に帰ると、当時の先輩方に「スポンサーである大阪に刃向かうなんてもっての外」と大反対されました。外からも内からも反対されましたが、竹瀬先輩は鴻池先輩を励まし、心を一つにしてきたメンバーを叱咤激励し、「鴻池を会頭にする」というブレそうになる念いを繋ぎました。そして、どうすれば道が繋がるかを考え戦略を練り、作戦を立て、行動に移していきます。作戦は、尼崎青年会議所メンバーが一丸となり会頭への気遣い・心遣いを全力ですることでした。井奥会頭はあまり多くのセクレタリーを連れて出てきていませんでした。井奥会頭は会議・懇親会が終わると、他の役員が銘々飲みに行く中、会頭職という立場柄一人でホテルへ帰ります。竹瀬先輩は、その頃を見計らって「尼崎の竹瀬です。鴻池に言われて電話させていただきました。お水はテーブルの上に置いてあります。他、何かご用はありませんか」と全国(京都会議、全国地区大会、東京正副会議・理事会など)を飛び回る全てのホテルで、これを繰り返しました。会頭から「タバコが欲しい」などと要望があれば「承知しました」とお持ちする。その時にかわす何気ない会話や、竹瀬先輩をはじめとする尼崎青年会議所メンバーの規律正しい立ち振る舞いに親近感を持っていただくようになりました。そして、井奥会頭は麻生直前会頭の言いつけを守らず鴻池先輩に会頭指名をすることになりました。晴れて会頭になることができたのは、勿論、鴻池先輩の人格・人柄や力量も大いにありますが、当時の尼崎青年会議所メンバーが一丸となった礼儀・規律・気遣い・心遣い・立ち振る舞いなどの賜物だったと思います。
私が尼崎青年会議所に入会した1989年には、3人のレジェンドは、すでに卒業されていましたが、「会頭への道」で培われた規律・礼儀・先輩を敬うといった所作は尼崎JC道となり色濃く残っていました。その中でも森本先輩の所作は伝説となっていました。鴻池先輩曰く「何千人もいる会場で会頭として挨拶することがある。そんな大きな会場でも森本は真っ直ぐにこちらを見ていてくれた。少しでも困ったことがあると、目と目で合図でき、それを察知して困りごとを解決してくれた。そして、何よりも森本の立ち姿は美しかった。本当に有難い存在やった」のだと。しかし、レジェンド2人が亡くなり、良き伝統が薄れているように感じています。私がシニアクラブの会長となり1年が経ち、色々な場所で挨拶する機会や出て行く機会が増えました。その都度、鴻池・竹瀬・森本先輩ならどういう挨拶をするのだろうか、どういった立ち振る舞いをするのだろうか、と行動の指針となっています。世間には生きているような、死んでいるような人が多い中、鴻池・竹瀬先輩は、死んでなお、私の心の中で輝いています。レジェンドが残してくれた良き伝統は簡単に手に入れることはできません。そして努力しなければ残せません。私の役目はこの良き伝統を未来にどう残すかだと考えています。
2020/02/01 -
2020.01.01
キアヌ・リーブス
1989 年、神戸にて牛乳宅配店を始めました。牛乳宅配をやりたいというより、何でも届けられる宅配というビジネスモデルに魅力を感じたことが大きな理由の1つだったように 思います。牛乳の配達を始めてみて、このビジネスモデルの大いなる価値に気付きました。 それは、配達中に時折お会いするお客様との会話や集金時の会話などから、大切なお客様の 個人情報が簡単に積み上がっていくことでした。家族構成や年齢、趣味嗜好に至るまで。こ のビジネスモデルの最大の強みは「お客様ニーズの先取り」だと実感しました。牛乳屋とい う枠組みを超えて、顧客ニーズを先取りし、乳製品以外の商品を届けられないかを試行錯誤 しましたが、乳製品を上回る商品を見つけることができなかったというのが、実情です。起 業から30年が経ち、デジタル革命の先頭を走るアマゾンや楽天といったネット通販は私の 思惑を大きく超えて、宅配ビジネスを変えてしまいました。ネットで注文して、自宅にあら ゆるモノが届けられる時代となりました。もちろん乳製品も注文すれば届きます。ネット通 販は牛乳屋の存在価値を無くしてしまうのではと危機感を持ちましたが、今のところ大き な変化はありません。その理由は牛乳宅配のお客様の大部分がネットをあまり利用しない シニア層だからだと思います。牛乳宅配店の一番大きな目標は、今後益々拡大するシニア層 に対し、必要な商品やサービスを開発することだと思います。これからは乳製品を届けるだ けではなく、シニアのお客様層から信頼されるように努めながら、ちょっとしたお手伝い (草むしり、電球交換など)、本格的なお手伝い(エアコン・換気扇のクリーニング、障子 の張り替えなど)、ライフサポートコンシェルジュ(終活・年金・保険・不動産の相談など) を本格的に取り組んでいきます。そして、「牛乳を届ける会社」から「地域やシニアの役に 立つ会社」へ変化しなければ、生き残れないと考えています。
最近強く感じることがあります。それは、人生の前半と後半では吹く風の向きが変わるの では…。起業の頃(前半)は欲しいモノを得たいというエネルギーやパワーが強ければ強い ほど、それが原動力となり欲しいものを手に入れることができました。これは人生の前半戦 で吹く追い風のようなものだと思います。しかし、この数年、自分の欲望の赴くままに新た な事業を始めても、あまり上手くいきませんでした。その理由を考えてみると「人生の前半 と後半では吹く風向きが変わる」と考えると合点がいきました。人生の後半では自分の欲し いモノを手に入れるために、頑張れば頑張るほど、騙されたり、失敗したりと、向かい風が 吹き苦労の連続でした。「どうしたら喜ばれる存在になれるだろうか」、「今まで得たモノで どうやってみんなの役に立つか」と考えると、向かい風が追い風に変わりました。これが人 生の後半に吹く追い風です。人生の折り返し地点を過ぎたと思ったら、自分の欲しいモノを 求めて動くより、「自分のため」から「自分以外の人のため」の利益になるかを考えてみる と、どんどん追い風が強くなり、仕事でも成果が上がりだしました。人生は不思議ですが、 前半と後半で風向きも違い、色々なことを学ぶように組み立てられているのですね。
状況もビジネスモデルも生き方も、あらゆるモノは時の流れとともに変化します。しかし、 どのような変化が起ころうが、自分の人生をどう生きるかを決めるのは私たち自身です。最近、素敵な生き方をしていると思った方を紹介します。映画・マトリックスシリーズで主役 を務めるキアヌ・リーブス氏です。彼は 100 億相当のハリウッドスターだと言われていま す。しかし、今でも地下鉄に乗り、ボディガードもいません、高級な服も着ていません、ま してや豪邸にも住んでいません。彼の人生は恋人を事故で亡くす、友人を病気で亡くす、妹 は白血病になり、ご自身もうつ病になるなど、数々の不運に見舞われました。しかし、その ような状況の中で彼は言います。「結局はどんな悲惨な状況の中でも素晴らしい人は力強く 生きることができる、あなたの人生で何が起きていようとも、あなたはそれを乗り越えるこ とができます。人生は生きる価値のあるものです。あなたの人生の中で苦労したすべてのこ とのおかげで、今のあなたの存在があります。苦難の時はあなたを強くするだけなので、そ んな時には感謝しましょう」と自分のこと以上に周りにいる人を励ましました。「私たちは 毎日の生活に捉われすぎるあまり、人生の中の美しさに目をやることを忘れてしまってい ます。目があった人に挨拶をしたり、辛そうに見える人に手を差し伸べてみるのもいいかも しれません。誰かを助けるのです」「どうかあなた自身を真剣に考えすぎるのはやめてくだ さい。美味しいものを食べましょう。太陽の下を歩きましょう。海に飛び込みましょう。馬 鹿げたことをやりましょう。優しく生きましょう。人生をその他のことのため使う時間なん てないのですから」
2020/01/01 -
2019.12.01
5G(ジェネレーション)
最近、時代の変化を感じる出来事がよく起こっています。沖縄でタクシーに乗ったときのことです。運転手は公道なのに百㎞近いスピードで飛ばしています。あんまり飛ばすので、その運転手に目をやると70代後半から80歳ぐらいの方でした。私は驚き「運転手さん、急いでいないので、飛ばさなくていいですよ。お歳は幾つですか?」と尋ねると「95歳」と言われました。高齢だとは思いましたが、まさか95歳だとは…。もう一つ質問を「耳は聞こえますか?」運転手さんは「耳は大丈夫、ただ目が見えづらい…」と答えました。沖縄の地で、超高齢化社会、まさに百年時代の到来を感じました。
もう一つ。近頃牛乳配達アルバイトの雇用ができません。いろんな媒体に、かなりお金をかけて募集しても一向に応募がありません。アルバイトを正社員に変えて、更に配達の仕事としては良い給与を提示しても、働いてもらいたい方からの反応はありません。思い余ってリクルートのプロに相談してみました。昔と今は刺さる言葉が違うとのこと。昔は「高い給与(お金)」に刺さる人が多かったようですが、今は「地域貢献」や「人の役に立つ」と言う言葉に刺さる方が多いようです。それは、今の20代が中高生の頃、道徳の授業で「地域貢献」「人の役に立つ」などを勉強していたことが理由のようです。時代の変化によりお金への執着や働く目的などが変化しています。地域の役に立つ・人の役に立つ、そのようなことができない企業は人の雇用も厳しくなる時代が到来したのかもしれません。
先に書いたように、人々のライフスタイルも生き方も時代に合わせて変化しています。そして、企業も時代の変化に合わせて変化できる企業しか生き残れないと強く感じています。そして、2020年より最も大きな情報化社会の変化が始まろうとしています。それが「5G(ジェネレーション)」です。携帯電話の進化を説明しますと、1980年に1G・携帯電話が誕生します。ここでは電話の機能しか有りませんでした。1990年2G・メール機能が追加され、携帯電話が話すアナログ機能から、伝達するデジタル機能に変化しました。この機能により飛躍的に仕事効率が向上し、仕事のできる人とそうでない人の差が大きく開く時代が到来し、格差社会の始まりを予感しました。2001年3G・検索機能が追加されYahoo、Googleなどの検索エンジンが世の中に誕生しました。なんでも簡単に調べることができる時代に入りました。2012年4G・動画、スマホゲームと進化し、動画配信を仕事とするyoutuberという職業が世の中に出てきましたし、ゲームもどこにいてもスマホで気軽にできるようになりました。1G~4Gの今までの進化は、困っていることや壁を越えるための技術革新でした。しかし、今回の2020年5G時代は何ができるのかわからないぐらいの革新(潜在的需要の発見)と言われています。5Gの大きな特徴として高速大容量・低遅延・多数同時接続の3つの機能革新です。災害やフェスなどで電話がつながりにくくなる事がなくなる、サクサクと動画が見ることができる。3時間の映画が3秒でダウンロードできるようになる、同時に多くの人がゲームに参加できる、VR・ARで音楽やスポーツがマルチアングルで見る事ができる、など驚くような変化が次々と起こります。
わかりやすい変化が起こるトヨタ自動車の未来を説明します。自動車の製造販売会社トヨタは国内でソフトバンクと技術提携し、自動車にインターネット機能やAI機能が装備され、北米ではUberと提携し、Uber用車輌のリース販売を始めました。Googleマップの進化、AI自動運転の技術とカーシェアリングの価値観が進んでいくと、無人の車が移動したい場所まで連れて行ってくれるようになります。この技術を安心・安全なものにするのに5Gは不可欠なのです。そして、移動手段として自動車を買う必要がなくなります。タクシー会社も必要なくなり、損保会社も消えて無くなるかもしれません。最近、大々的に「トヨタは自動車を売る会社をやめ、自動車を使ったサービスを売る会社に変わります」と広告しています。
「5G」は、今までとは桁違いなデジタル革命だと言われています。予測不能の革新をうまく利用できる企業が天下を取ると考えられます。時代が変わればモノ・サービスの価値も、仕事のやり方も表現方法も変わります。過去の栄光や成功は頭から消し去り、時代にあった新しいモノに置き換える必要があります。時代は昭和、平成、令和と移りました。時代によって、変わること、変らないことがあります。大切なことは自分の判断で、変えてはならないこと、変えなければならないことの選択をすることだと思います。イデオロギーの戦いから、情報の戦いへと変わり、信頼の戦いへと変化していくでしょう。人格、人間性のある人へ情報もモノも集まっていくように思います。
2019/12/01 -
2019.11.01
祝・尼崎青年会議所60周年
平成元年、27歳の時に尼崎青年会議所に入会しました。尊敬できる先輩、同世代の仲間、同じ経営者であり、似通った境遇の多く仲間と出会いと数々の学びがありました。中でも厳しい先輩方と痺れるような感覚の中、お付き合いを通して学んだことは、人生を生きていく上で大きな財産となっています。挨拶の仕方から酒の注ぎ方、強烈なカリスマ性だけではなく茶目っ気にとんだユーモア、「白か黒」キッパリと腹をくくる、迷いや不安を見せず毅然とした堂々とした態度、など生き様の原点がここにあるように思います。愛すべき尼崎青年会議所が60周年を迎え、シニアクラブ会長として挨拶させていただきました。
「多くの皆様に支えられ、そして、見守られ、尼崎青年会議所は創立60周年を迎えることになりました。私がこの場に立ち、皆様に申し上げる言葉は『感謝』この一言に尽きます。心からの感謝・御礼を申し上げます。創立60年を機に尼崎青年会議所は、この尼崎という街に何を残せたのか、何を誇りに思えるのかを考える機会となりました。毎年、毎年誕生する理事長のリーダーシップの下、地域貢献事業、社会貢献事業、青少年事業、周年ごとに庄下川に浮かべた舟だんじりや継続事業としてエコクラブなど素晴らしい事業を開催し、運動を展開してまいりました。しかし、この尼崎に何を残せたのか、何を誇りに思えるのかを考えた時、私の脳裏に一番最初に強く思い浮かんだのは、『礼儀や規律を重んじ、先輩を敬う伝統』、すなわち、尼崎JC道ともいうべき道、その道で磨かれた多くのリーダー達のことでした。尼崎青年会議所を卒業後、リーダー達はPTA会長、地域諸団体の会長、社会奉仕団体の会長、仕事に於いては、その業界団体の会長など多くの諸団体で活躍してくれています。そんなリーダーの、一人ひとりがこの尼崎に残せたものであり、誇れるものであると、手前味噌ではありますが、自負しております。そして、尼崎JC道の根幹にあるものが『鴻池祥肇』であり『鴻池を支えた男達』の存在でした。
40年前、鴻池が現役だった頃の話です。尼崎青年会議所は他LOMから尼崎軍団と呼ばれていました。それはそれは男臭い集団で、いつもダークスーツに身を包み、今でいう反社会的な様相を呈した、男が男に惚れるという言葉がピタリと決まるぐらい素晴らしい男達がたくさん存在しました。尼崎軍団の願いはただ一つ、『鴻池を日本青年会議所の会頭にする』でした。麻生太郎会頭年度、次年度井奥会頭が決定し、鴻池は副会頭に決まりました。麻生会頭から『井奥の次は大阪に決まっているから、会頭への爪を伸ばさぬように』と釘を刺されました。尼崎の先輩方からも『スポンサーである大阪JCに刃向かうなんて以ての外』と大反対を受けました。しかし、鴻池の思いはブレません。その姿を見ていた鴻池を支えた男達も微塵もブレることはありませんでした。井奥会頭年度、なぜか鴻池は次年度会頭指名を受けました。なぜ予想に反し、会頭指名を受けることができたのかは、我が尼崎JCの誇るレジェンド竹瀬元紀にお聞きください。晴れて鴻池は日本JC会頭となり、尼崎を日本一に導いてくれました。有難い、本当に有難いことです。鴻池が居たから尼崎JCがあり、鴻池を支えた男達が居たから尼崎JCシニアクラブがあり、尼崎JC道が出来上がりました。しかし、昨年末、尼崎JCの大きな柱である鴻池は亡くなりました。悲しい、本当に悲しいことです。しかし、悲しんでばかりはいれません。鴻池が居なくなったとしても、鴻池が居た尼崎青年会議所は未来永劫負けられないんです。『尼崎は負けてはならん』そんな気概をもって、現役とともに一歩一歩、前進することを、この場で誓い本日のお礼の挨拶といたします。ありがとうございました。」
私は尼崎青年会議所に深い思いや目的があって入会したわけではありません。たまたま知り合いから声をかけられ入会した「たまたまのご縁」でした。しかし、その「たまたまのご縁」が未来の人生や仕事を大きく変えていく大きな出会いの場となりました。考えてみれば地球上には何十億人もの人が生きていますが、その中必然とも思えるような出会いに遭遇すること、数え切れないほど売られている本の中で人生を変えるような本との出会いなど、ご縁とはそれ自体が奇跡のような物です。「物事にはすべからく、ご縁が働いている」としか思えません。私にとって、青年会議所入会は奇跡的な必然だったのかもしれません。JC入会から30年、最近になり理解できるようになったことは、ご縁に対して敏感になることができれば、良き縁を生かしてタイミングよく自身の成長ができたり、ビジネスを広げていくことが可能になるように思えます。今は「たまたまご縁」に感謝の気持ちでいっぱいです。「良きご縁の積み重ねによって人生は彩られる」
2019/11/01 -
2019.10.01
あした死ぬかもよ? Vol.3 ~特攻隊~
『昭和20年、アメリカ軍はいよいよそこまで迫っていました。沖縄海域に集めた戦艦は 1500隻以上。兵力はのべ54万8000人。一方、日本軍の守備隊は8万6000人。もし沖縄が 落ちれば、本土九州は目と鼻の先。ここは、なんとしてでも死守しなければいけない。沖 縄が落ちれば、本土に乗り込まれる。そんな事態になれば、北からは、ソビエト連邦(現 ロシア)が攻め入り、朝鮮半島やドイツのように、日本も北と南に二分していた可能性も 高かったのです。そこで編み出された戦法が特攻。体当たりによる自爆です。飛行機1機 の犠牲で、相手の航空母艦や戦艦を沈められるのです。』
『特攻隊で亡くなった若者の人数は4400人にものぼります。いつか死ぬ身であるなら ば、いま最大の国難に立ち向かうことで、愛する人を守れるのではないかと、彼らは希望 を描いたのです。』
『少年飛行兵の教官、藤井一中尉のことが忘れられません。教え子たちが特攻隊として 死んでいく。しかし、教官の自分は安全な場所にいる。「日本が大変なときに、オレは教 えるだけでほんとうにいいのか」藤井中尉の自問自答が始まるのです。特攻に飛び立つ少 年兵と違い、教官の藤井中尉には、妻も子どももいました。自ら特攻志願をすれば、妻と 子どもとは永遠のサヨナラです。妻は特攻に行くのは大反対で、夫の志願を来る日も来る 日も懸命に思いとどまらせようとしました。藤井中尉は悩んだ末、選んだ道は……教え子 に対して、「お前たちだけを死なせない」。そう、命を投げ出す特攻の道でした。しかし、 面倒を見なければいけない家族が多い将校は、特攻には採用されないのが原則。志願は却 下されました。それでも藤井中尉の決意は変わらず、嘆願書を再提出するのです。夫の固 い決意を知った妻の福子さん(当時24歳)は、「私たちがいたのでは後顧の憂いになり、 思う存分の活躍ができないでしょうから、一足先に逝って待っています」という遺書を残 し、3歳間近の長女・一子ちゃんと、生後4ヵ月の次女・千恵子ちゃんに晴れ着を着せて、 厳寒の荒川に身を投げたのです。妻子の死を知り、藤井中尉(当時29歳)は、今度は指を 切って、血ぞめの嘆願書を提出。ついに特攻志願が受理されるのです。藤井中尉の亡き我 が子への遺書が残っています。
12月になり冷たい風が吹き荒れる日、荒川の河原の露と消えた命。母とともに血の燃え る父の意志にそって一足先に父に殉じた、哀れにも悲しい、しかも笑っているように喜ん で母と共に消え去った幼い命がいとうしい。父も近くおまえたちの後を追って逝けること だろう。必ず今度は父の暖かい胸で抱っこしてねんねしようね。それまで泣かずに待って いてね。千恵子ちゃんが泣いたらよくお守りしなさい。ではしばらく、さよなら。 戦後、空母で銃撃を担当していたアメリカ兵の方が(中略)次のように証言したそうで す。次々と、アメリカの飛行機を爆撃していく日本の飛行機があった。「これはまずい」 と、そのアメリカ兵は必死の攻防の末、なんとかその飛行機を撃ち落としました。しかし、 飛行機は墜落する水面すれすれの状態で急旋回して、アメリカの空母目がけて横から攻撃 してきたというのです。「何という執念」と、そのアメリカ兵の記憶に残っていたのだと か。その飛行機に乗っていたのは2人組だったそう。その日、2人組で出撃したものを調べ てみると、それは……藤井中尉でした。』(ひすいこたろう著「あした死ぬかもよ?」より引用)
藤井中尉は特攻に行かなくてもいい地位にいたのに、日本の未来を案じ、苦悩の末に決 意したのは特攻でした。あれから74年が経ち、今の日本は未来に希望が持てないという理由で多くの若者が自殺をする世の中です。また、親が子を虐待し、子が親に暴力を振る う、自分さえ良ければ良いと、年寄りをターゲットにしたオレオレ詐欺が横行し、年寄り から金銭をだまし取る。藤井中尉が今の日本の現状を見たら、きっと、自らの命を犠牲に してまで守りたかった日本の未来とはかけ離れていることを残念に思うことでしょう。そ して、自分の命を無駄にしないでほしい、この世の中を変えねばならない、そんなことを 思うに違いありません。平和な今の時代を生きるからこそ、過去の日本人の生き方やあり 方を忘れてはならないと思います。何のために、自分自身の限りある命を使うのか、を考 えさせられました。そして、人は想いを繋ぐことができると信じたいと強く思いました。
最近、「利他の精神」について学んでいますが、まさに特攻とは救国の「利他の精神」 だと思います。「自分以外のために」を真ん中において判断をすると、少し前なら簡単に のっていた儲け話も乗らなかったり、社員との価値観の違いも面倒に思わず社員の価値観 に寄り添い対応できたり、簡単そうで意外と難しいと感じています。人生の目的を考えた 時、一つは心を高め、魂を磨くこと。もう一つは人のため、世の中のために尽くすこと、 だと思います。起業から30年、私は富を手に入れることばかりに執着し、自らの欲得を満 たすために奔走していたように思います。しかし、生まれた時より多少でも魂が美しくなっ たか、わずかなりとも人間性が高まったか、などが大切なことだと思える人間になれるよ うに自己改革の真っ最中です。しかし、自らの欲得を抑え、優しい思いやりの心をもって、 自分以外のために尽くす。これらの実践は本当に難しいと感じている今日この頃です。 「すべては心に始まり心に終わる」
参考文献 ひすいこうたろう著『あした死ぬかもよ?』ディスカヴァー・トゥエンティワン, 2012年
2019/10/01