Column 社長コラム
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2019.11.01
祝・尼崎青年会議所60周年
平成元年、27歳の時に尼崎青年会議所に入会しました。尊敬できる先輩、同世代の仲間、同じ経営者であり、似通った境遇の多く仲間と出会いと数々の学びがありました。中でも厳しい先輩方と痺れるような感覚の中、お付き合いを通して学んだことは、人生を生きていく上で大きな財産となっています。挨拶の仕方から酒の注ぎ方、強烈なカリスマ性だけではなく茶目っ気にとんだユーモア、「白か黒」キッパリと腹をくくる、迷いや不安を見せず毅然とした堂々とした態度、など生き様の原点がここにあるように思います。愛すべき尼崎青年会議所が60周年を迎え、シニアクラブ会長として挨拶させていただきました。
「多くの皆様に支えられ、そして、見守られ、尼崎青年会議所は創立60周年を迎えることになりました。私がこの場に立ち、皆様に申し上げる言葉は『感謝』この一言に尽きます。心からの感謝・御礼を申し上げます。創立60年を機に尼崎青年会議所は、この尼崎という街に何を残せたのか、何を誇りに思えるのかを考える機会となりました。毎年、毎年誕生する理事長のリーダーシップの下、地域貢献事業、社会貢献事業、青少年事業、周年ごとに庄下川に浮かべた舟だんじりや継続事業としてエコクラブなど素晴らしい事業を開催し、運動を展開してまいりました。しかし、この尼崎に何を残せたのか、何を誇りに思えるのかを考えた時、私の脳裏に一番最初に強く思い浮かんだのは、『礼儀や規律を重んじ、先輩を敬う伝統』、すなわち、尼崎JC道ともいうべき道、その道で磨かれた多くのリーダー達のことでした。尼崎青年会議所を卒業後、リーダー達はPTA会長、地域諸団体の会長、社会奉仕団体の会長、仕事に於いては、その業界団体の会長など多くの諸団体で活躍してくれています。そんなリーダーの、一人ひとりがこの尼崎に残せたものであり、誇れるものであると、手前味噌ではありますが、自負しております。そして、尼崎JC道の根幹にあるものが『鴻池祥肇』であり『鴻池を支えた男達』の存在でした。
40年前、鴻池が現役だった頃の話です。尼崎青年会議所は他LOMから尼崎軍団と呼ばれていました。それはそれは男臭い集団で、いつもダークスーツに身を包み、今でいう反社会的な様相を呈した、男が男に惚れるという言葉がピタリと決まるぐらい素晴らしい男達がたくさん存在しました。尼崎軍団の願いはただ一つ、『鴻池を日本青年会議所の会頭にする』でした。麻生太郎会頭年度、次年度井奥会頭が決定し、鴻池は副会頭に決まりました。麻生会頭から『井奥の次は大阪に決まっているから、会頭への爪を伸ばさぬように』と釘を刺されました。尼崎の先輩方からも『スポンサーである大阪JCに刃向かうなんて以ての外』と大反対を受けました。しかし、鴻池の思いはブレません。その姿を見ていた鴻池を支えた男達も微塵もブレることはありませんでした。井奥会頭年度、なぜか鴻池は次年度会頭指名を受けました。なぜ予想に反し、会頭指名を受けることができたのかは、我が尼崎JCの誇るレジェンド竹瀬元紀にお聞きください。晴れて鴻池は日本JC会頭となり、尼崎を日本一に導いてくれました。有難い、本当に有難いことです。鴻池が居たから尼崎JCがあり、鴻池を支えた男達が居たから尼崎JCシニアクラブがあり、尼崎JC道が出来上がりました。しかし、昨年末、尼崎JCの大きな柱である鴻池は亡くなりました。悲しい、本当に悲しいことです。しかし、悲しんでばかりはいれません。鴻池が居なくなったとしても、鴻池が居た尼崎青年会議所は未来永劫負けられないんです。『尼崎は負けてはならん』そんな気概をもって、現役とともに一歩一歩、前進することを、この場で誓い本日のお礼の挨拶といたします。ありがとうございました。」
私は尼崎青年会議所に深い思いや目的があって入会したわけではありません。たまたま知り合いから声をかけられ入会した「たまたまのご縁」でした。しかし、その「たまたまのご縁」が未来の人生や仕事を大きく変えていく大きな出会いの場となりました。考えてみれば地球上には何十億人もの人が生きていますが、その中必然とも思えるような出会いに遭遇すること、数え切れないほど売られている本の中で人生を変えるような本との出会いなど、ご縁とはそれ自体が奇跡のような物です。「物事にはすべからく、ご縁が働いている」としか思えません。私にとって、青年会議所入会は奇跡的な必然だったのかもしれません。JC入会から30年、最近になり理解できるようになったことは、ご縁に対して敏感になることができれば、良き縁を生かしてタイミングよく自身の成長ができたり、ビジネスを広げていくことが可能になるように思えます。今は「たまたまご縁」に感謝の気持ちでいっぱいです。「良きご縁の積み重ねによって人生は彩られる」
2019/11/01 -
2019.10.01
あした死ぬかもよ? Vol.3 ~特攻隊~
『昭和20年、アメリカ軍はいよいよそこまで迫っていました。沖縄海域に集めた戦艦は 1500隻以上。兵力はのべ54万8000人。一方、日本軍の守備隊は8万6000人。もし沖縄が 落ちれば、本土九州は目と鼻の先。ここは、なんとしてでも死守しなければいけない。沖 縄が落ちれば、本土に乗り込まれる。そんな事態になれば、北からは、ソビエト連邦(現 ロシア)が攻め入り、朝鮮半島やドイツのように、日本も北と南に二分していた可能性も 高かったのです。そこで編み出された戦法が特攻。体当たりによる自爆です。飛行機1機 の犠牲で、相手の航空母艦や戦艦を沈められるのです。』
『特攻隊で亡くなった若者の人数は4400人にものぼります。いつか死ぬ身であるなら ば、いま最大の国難に立ち向かうことで、愛する人を守れるのではないかと、彼らは希望 を描いたのです。』
『少年飛行兵の教官、藤井一中尉のことが忘れられません。教え子たちが特攻隊として 死んでいく。しかし、教官の自分は安全な場所にいる。「日本が大変なときに、オレは教 えるだけでほんとうにいいのか」藤井中尉の自問自答が始まるのです。特攻に飛び立つ少 年兵と違い、教官の藤井中尉には、妻も子どももいました。自ら特攻志願をすれば、妻と 子どもとは永遠のサヨナラです。妻は特攻に行くのは大反対で、夫の志願を来る日も来る 日も懸命に思いとどまらせようとしました。藤井中尉は悩んだ末、選んだ道は……教え子 に対して、「お前たちだけを死なせない」。そう、命を投げ出す特攻の道でした。しかし、 面倒を見なければいけない家族が多い将校は、特攻には採用されないのが原則。志願は却 下されました。それでも藤井中尉の決意は変わらず、嘆願書を再提出するのです。夫の固 い決意を知った妻の福子さん(当時24歳)は、「私たちがいたのでは後顧の憂いになり、 思う存分の活躍ができないでしょうから、一足先に逝って待っています」という遺書を残 し、3歳間近の長女・一子ちゃんと、生後4ヵ月の次女・千恵子ちゃんに晴れ着を着せて、 厳寒の荒川に身を投げたのです。妻子の死を知り、藤井中尉(当時29歳)は、今度は指を 切って、血ぞめの嘆願書を提出。ついに特攻志願が受理されるのです。藤井中尉の亡き我 が子への遺書が残っています。
12月になり冷たい風が吹き荒れる日、荒川の河原の露と消えた命。母とともに血の燃え る父の意志にそって一足先に父に殉じた、哀れにも悲しい、しかも笑っているように喜ん で母と共に消え去った幼い命がいとうしい。父も近くおまえたちの後を追って逝けること だろう。必ず今度は父の暖かい胸で抱っこしてねんねしようね。それまで泣かずに待って いてね。千恵子ちゃんが泣いたらよくお守りしなさい。ではしばらく、さよなら。 戦後、空母で銃撃を担当していたアメリカ兵の方が(中略)次のように証言したそうで す。次々と、アメリカの飛行機を爆撃していく日本の飛行機があった。「これはまずい」 と、そのアメリカ兵は必死の攻防の末、なんとかその飛行機を撃ち落としました。しかし、 飛行機は墜落する水面すれすれの状態で急旋回して、アメリカの空母目がけて横から攻撃 してきたというのです。「何という執念」と、そのアメリカ兵の記憶に残っていたのだと か。その飛行機に乗っていたのは2人組だったそう。その日、2人組で出撃したものを調べ てみると、それは……藤井中尉でした。』(ひすいこたろう著「あした死ぬかもよ?」より引用)
藤井中尉は特攻に行かなくてもいい地位にいたのに、日本の未来を案じ、苦悩の末に決 意したのは特攻でした。あれから74年が経ち、今の日本は未来に希望が持てないという理由で多くの若者が自殺をする世の中です。また、親が子を虐待し、子が親に暴力を振る う、自分さえ良ければ良いと、年寄りをターゲットにしたオレオレ詐欺が横行し、年寄り から金銭をだまし取る。藤井中尉が今の日本の現状を見たら、きっと、自らの命を犠牲に してまで守りたかった日本の未来とはかけ離れていることを残念に思うことでしょう。そ して、自分の命を無駄にしないでほしい、この世の中を変えねばならない、そんなことを 思うに違いありません。平和な今の時代を生きるからこそ、過去の日本人の生き方やあり 方を忘れてはならないと思います。何のために、自分自身の限りある命を使うのか、を考 えさせられました。そして、人は想いを繋ぐことができると信じたいと強く思いました。
最近、「利他の精神」について学んでいますが、まさに特攻とは救国の「利他の精神」 だと思います。「自分以外のために」を真ん中において判断をすると、少し前なら簡単に のっていた儲け話も乗らなかったり、社員との価値観の違いも面倒に思わず社員の価値観 に寄り添い対応できたり、簡単そうで意外と難しいと感じています。人生の目的を考えた 時、一つは心を高め、魂を磨くこと。もう一つは人のため、世の中のために尽くすこと、 だと思います。起業から30年、私は富を手に入れることばかりに執着し、自らの欲得を満 たすために奔走していたように思います。しかし、生まれた時より多少でも魂が美しくなっ たか、わずかなりとも人間性が高まったか、などが大切なことだと思える人間になれるよ うに自己改革の真っ最中です。しかし、自らの欲得を抑え、優しい思いやりの心をもって、 自分以外のために尽くす。これらの実践は本当に難しいと感じている今日この頃です。 「すべては心に始まり心に終わる」
参考文献 ひすいこうたろう著『あした死ぬかもよ?』ディスカヴァー・トゥエンティワン, 2012年
2019/10/01 -
2019.09.01
あした死ぬかもよ? Vol.2 ~孫正義~
数年前より「孫正義」を題材にコラムを書きたいと考えていましたが、なぜか先延ばしになっていました。しかし、「あした死ぬかもよ?(ひすいこたろう著)」の本に書かれていた「孫正義」の若き日の出来事を知り優先順位が上がり書くことができました。孫氏は死と向き合うことで、自分の人生を変えました。『1983年に起きた出来事です。創業時3人だった社員も、その頃には125人に拡大し、売上高は45億円にまで成長していました。しかし、その矢先、20代半ばにして孫さんは突然の病に倒れるのです。病名は慢性肝炎。それも肝臓ガンへ進行する可能性の高い肝硬変寸前の状態。死亡リスクの高い重病です。孫さんは、20代にして、「5年は(命が)もつかもしれないが、それ以上は……」と診断されてしまうのです。入院当初、孫さんは、夜な夜な、病院でひとりメソメソ泣いていたのだそう。「会社も始動したばかり。子どももまだ幼いのに、俺もこれで終わりか……」こんなに勉強して、こんなに熱い気持ちで会社を起こしたのに、あとたった5年で俺の命は終わるのか……。なんのために仕事をしていたんだろう……。俺の人生はいったいなんだったんだろう。しかし、このとき、病院のベッドで、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』と出会います。幕末のヒーロー、坂本龍馬は28歳で脱藩し、33歳で暗殺されるまでの約5年間で日本を変えています。「5年」と寿命を宣告され、病院で泣いた孫正義。しかし!しかし!しかし!5年で革命を起こした龍馬の人生を知り、「あと5年もあれば、相当大きなことができるのではないか」と思い直した。そして「たかが自分の命ぐらいでくよくよしてどないするんや。もっと大きく構えにゃいかん」と思うきかっけになったのです。』
孫正義、1957年8月11日生まれ、日本の実業家、カリフォルニア大学バークレー校卒、ソフトバンク、純資産219億ドル(約2兆4千億円)。孫氏は佐賀県鳥栖市の朝鮮人集落で幼少期を過ごし、豚や羊と一緒に生活する、非常に貧しく不衛生な環境で育った。その後、父親の孫三憲氏が消費者金融、パチンコ業で成功した頃から生活も安定しはじめる。1980年カリフォルニア大バークレー校卒業後、コンピュータ卸売業「ユニソン・ワールド」を設立。1983年、先に記述したように慢性肝炎を患う。また、14歳で結婚し日本へ渡ってきた孫氏のおばあちゃんの口癖である「人様のおかげだ」この言葉を人生の指針にし、「お金じゃない、地位や名誉でもない、おばあちゃんの言っていたように、人に喜んでもらえることに、貢献できるような仕事がしたい」と思い、今に至る。
孫氏の経歴を分析してみると、幾つかの急成長のポイントが見つかりました。1つ目は渡米前に日本マクドナルド創業者・藤田田氏に会いに行き「どんな事業をしたらよいか」と質問します。藤田田氏は「コンピューターの時代が来る」と。その言葉通り、大学時代に自分で開発に携わった自動翻訳機を1億円でシャープに販売。逆に日本のインベーダーゲームをアメリカに輸入する。その時点で恐ろしい大学生でしたが、孫氏はこんなものでは終わりません。卒業後、たくさんのソフトウェアを集めて販売する会社、日本ソフトバンクを設立することになります。2つ目はYahoo!JAPAN設立(Yahoo!とはインターネット関連サービスの提供を行っていた企業の草分け的存在の企業、検索エンジンをはじめとしたポータルサイトの運営企業)に至る前に、日本を3ヶ月で席巻させるとYahoo!に直談判して日本の権利を勝ち取る。3つ目はインターネット接続サービス「ヤフーBB」開始、NTTに戦いを挑むも、NTTの既得権益に関しての理不尽な対応をめぐり何度も頓挫。総務省に駆け込みNTTの遅い回線が日本にどれだけ不利益なのかを説明し、大騒ぎをする。そして、ここでも直談判で権利を勝ち取る。4つ目はスティーブ・ジョブスとの出会いでiPhoneの素晴らしさを知り、独占販売権利を手中に収める。 そのために、ボーダフォンを買収し、ソフトバンクのロゴマークを変更、Appleのロゴマークに近いカラーに統一し受け入れ体制を準備する。4つの急成長を通じてコンピューター→PCソフト→インターネット→電話通信へと滑らかな変化と孫氏の行動力が相まって成功のスパイラルが高回転し、今の企業が出来上がります。
孫氏は「志を高く、人生1回しかない、自分が登りたい山を、決めてほしい、自分の人生を何に賭けたいのか、心に決めてほしい、遅くなりすぎる、その分人生の年限が減る、実現する可能性が低くなる、早く志を持った者は強い、自分の人生を無駄にしない、是非みなさん、1回しかない人生を無駄にしないでください、大切にしてください」と言っています。孫正義の人生を調べ、改めて心に強く感じたことは「志を高く持って生きる」「いつ死んでも後悔のないように生きる」「家族の笑顔・社員の笑顔・お客さんの笑顔を生み出すために生きる」こんな生き方をしようと思いました。
参考文献 ひすいこうたろう著『あした死ぬかもよ?』ディスカヴァー・トゥエンティワン, 2012年
2019/09/01 -
2019.08.01
あした死ぬかもよ? ~命の使い方~
2年程前、あまり悩むことのない私が、珍しくこれからの人生(生き方)について悩んでいまし た。その頃は数多くの事業を手掛け、忙しい日々を送っていました。しかし、忙しい割には成果 は出ていませんでした。そんな中、仲良しの経営者がライフスタイルを仕事中心から遊び中心に シフトし、人生を謳歌する選択をしました。それがきっかけとなり、自分の人生(生き方)を見 つめ直す機会となりました。そして、これからどう生きるかを決定する上で、私に強く影響を与 えたのは、一人の男と一冊の本でした。
一人の男とはアメリカ大統領ドナルド・トランプ。資産1兆円の大富豪。熱狂的な支持者もいま すが、罵られるぐらいに嫌われている不支持者が半数。私は人から嫌われ罵られるような生き方 をしてこなかったので、多くの人に嫌われる生き方は理解できません。しかし、自分の信念に基 づき狂犬のように吠え、嫌われようが自分の信念を貫く生き方。「みんなに支持されなくていい んだ」と、トランプの生き方に少し憧れが芽生えました。トランプの評価は後世にならないとわ かりませんが、世界の指導者である習近平、プーチン、金正恩などと互角以上に渡り合える人は、 そうはいません。そして、こんなにも多くの人から非難されている男が1兆円の資産を作ることが できるという事実にも勇気をもらいました。トランプのように目標や志を高く掲げ、自分の意志 を貫いて生きる、これからの人生の生き方改革の参考となりました。
一冊の本とは「あした死ぬかもよ?(ひすいこたろう著)」という本でした。この本には『ア メリカ人90歳以上の老人に質問「90年の人生を振り返り唯一後悔していることはなんですか?」 90%の人が同じ答えでした。「もっと冒険しておけばよかった」あなたはやりたいことをやる人 生とやりたいことをやらない人生、どちらを選びますか?やりたいことを選びますよね。しかし、 このままの生き方を続けると人生最後の日、90%の確率で後悔することになりそうです』と書か れていました。自分の人生を振り返り後悔は微塵もありませんが、全力で力を出し切ったかと問 われると、そこまではできてないというのが本音のところです。起業から30年の間で、どの時期 に全力で生きていたかを振り返ると、起業間も無くの数年間だったように思います。起業の動機 は金を稼ぎたい、毎日美味しいものを食べたい、着たい洋服を買いたい、乗りたい車に乗りたい、 大きな家に住みたい、などすべて自分の欲望のためでした。しかし、自分の欲望を満たすことを 目的に生きていると、周りの人からは理解を得られなかったり、人に騙されたりと、上手くいか ないことも多かったように思います。そして、よくよく考えてみると、これらの欲望はあの世に持っ ていけません。この世で財産を失うことは本当の不幸ではなくて、この世で最大の不幸は死ぬ前 に後悔することだと気づきました。後悔を避ける方法はたった一つ、自分の死を想像してみる。 死を見つめると、自分の「本心」に気づくことができます。どういう訳か人は「自分だけ死なな い」と思っていて「死はいつも他人ばかり」だと。残念ながら私たちが死に至る確率は100%です。 かつての侍は、あれだけ潔く情熱的に生きられたのは「自分はいつか死ぬ身である」という事実 から目をそらさずに「この命を何に使おうか」と日々心を練っていたからだと思います。「死は人 生を全力で生きるスイッチ」なんですね。
現在でも、目標や志を高く持ち、いつ死んでも後悔しない生き方を考えています。どのような生 き方をするべきか、どんな仕事を選択すればよいか、まだ結論は出ていませんが、少し考えが定 まったことは、私の人生の大きな目的として「一人より十人、十人より百人、百人より千人、千 人より万人、どれだけたくさんの人に必要とされるか」という生き方をすると定めました。自分 のためではなく、自分以外のためになる生き方をする。あまり大層にならず、自分以外のために何 ができるのかを、人生の目的として生き方を考えてみると、仕事関連以外の人と関わる時間が増え たように思いますし、仕事でもそれまでの戦略とは全く違う戦略が頭に思い浮かぶようになりま した。自分と仲間がプライドを賭け取り組んだ仕事が業界にどんな価値を生み出し、自分自身その仕事にどれだけ価値を見出すことができるのか、そんなことを考えていると心が躍ります。上手 くいく、いかないは自分以外の何かにどれだけ役に立っているのか、そして、そこに本気の価値を 感じているかどうかなんだと。最近よく思うことですが、自分だけが喜び、自分だけで利益を完 結し、自分がどれだけ稼ぐか、は何か違和感を感じます。「自分がどれだけ得をするか」と「自 分以外のために価値を生み出し、結果として自分がどれだけ得をするか」は似ているようで全然 違います。本当に世の中の価値を生み出そうとすると「急がば回れ」というような選択肢を持ち、 会社の趣旨や思いを認知されないと、世間から支持されないように思います。まだ確かな人生の 目標までは完成していませんが、周りにいる仲間と、自分の定めた業界や地域を変え、結果的に この日本を変えられるような生き方を送ることができれば本望です。
参考文献 ひすいこうたろう著『あした死ぬかもよ?』ディスカヴァー・トゥエンティワン, 2012年
2019/08/01 -
2019.07.01
令和
5 月 1 日、新元号である「令和」が始まりました。飛鳥時代、645 年から始まった最初の元号は「大化」でした。「大化」から始まり「令和」まで 248 の元号 が存在します。その歴史は 1374 年。日本は元号ができてから数えても、世界で 一番長く続く国です(世界で2番目に長く続いている国がデンマークで約 1000 年)。それよりも古いのが日本の建国、紀元前 660 年に神武天皇が奈良の橿原で 即位したところから始まります。建国から 2679 年、初代神武天皇から始まり、 新天皇まで 126 代。神話の時代から脈々と続いていることが、古事記・日本書 紀などの神話の中で生きています。古事記・日本書紀は日本政府の公式見解を 示した、日本初の正史です。古事記・日本書紀をベースとして天皇制度も祝日 も神社も存在しています。我々、日本人は明治時代以降、西暦を使うようにな りました。それ以前は和暦(皇紀)でした。戦後、米国主導で教育制度は決め られ、日本の歴史である古事記を読む機会も減りました。経済や都市計画、そ して暦も欧米基準となり、日本の建国はどのようになされたのかを知る機会が 少なくなりました。日本に生まれ、日本人として育ったのに、日本のことを知 らない、建国のことを知らないということは、自分のルーツを失ったのも同然 です。他国の建国の歴史を振り返ると、必ず侵略の歴史や植民地があり、他国 において建国とは略奪と支配を表しています。そして、多くの国家は 2~300 年 の短命でことごとく滅びています。日本と他国の歴史は大きく違います。この ような尊い国は世界中探しても存在しません。日本に生まれたことに感謝し、 この国に誇りを持ちたいと思います。
「平成」から始まった情報革命は世の中や人々のライフスタイルまでも大き く変えてしまいました。そして、「令和」の時代になり、変化のスピードはます ます速くなるように思います。真面目に働けば、それなりに暮らせる時代は終 わり、働いても豊かになれない、良くない時代へと移りゆくように思います。「令 和」での私の生き方について書かせていただきます。人には持って生まれた性 分というものがあり、私の性分は命の限り挑戦したい性分のようです。2015~ 2017 の3年間に多くの新規事業に投資をしましたが、ほぼうまくいきませんで した。2018 年は小休止してじっくりと考える 1 年としました。まず、起業から 今までを振り返りました。平成元年、宅配牛乳事業を起業、初年度 700 万円の 年商が、最初の 10 年は前年比 150%で毎年伸び、30 倍、次の 10 年は平均 120% で、初年度の 300 倍に、その次の 10 年はあれこれ新規事業を始めました。宅配牛乳事業の伸びは僅かでしたが、新規事業を支えたのが宅配牛乳事業という構 図でした。過去 30 年で一番ワクワクドキドキしたのは、苦しかったけど創業間 もない頃だったように思います。「令和」から始まる人生の後半戦は創業初期に 立ち戻り、ワクワクドキドキの人生にすると決めました。そういう人生を送る ためには、「どのような事業をすればいいのか?」そして、100 年続く起業を目 指すには「何のために?」「誰に喜んでもらうのか?」などを日々考えるように なりました。「平成」が終わる前に、やるべきことは「不採算事業の閉鎖」「や るべきことを絞る」「未来ビジョンをじっくりブランディング」でした。すべて の不採算事業は「平成」の時代に終わらせました。やるべきことを4つに決め ました。その4KEYWORD は「IT」「コンサル」「グローバル」「不動産」と定 め、これ以外は新しくやらないと決めました。未来ビジョンのブランディング はじっくりと考え、ほぼ完成しました。ただこれは時代の変化に合わせて少し ずつ変えていくつもりです。
2018 年に小休止をして背負っている多くのものを下ろし楽になりました。楽 観的か、悲観的か。自分が感じている以上に周囲からすると楽観的に見られて いるように思います。それは、難しい決断を簡単に素早くしているように見え るからです。今回の「不採算事業の閉鎖」「やるべきことを絞る」「未来ビジョ ンをじっくりブランディング」という 3 つの課題も簡単に決めたように思われ がちですが、伏線となる出来事がありました。楽観的に見えるとしたら、数々 の失敗から学んだメリットやデメリットの計算ができたからだと思います。「令 和」という時代に起こる世の中の変化は全くもって予想不可能です。そして「令 和」という予測不可能な暗闇の中で生き抜くために必要なことは、自分を信じ、 楽しみながら、暗闇の中でおもいっきりジャンプすることだと考えています。 怖いから、怪我したくないから、恥をかきたくないから、足がすくんで挑戦で きなくなったらそこで終わりです。「良い波にのるコツは、波に乗っても踊らさ れないこと」「会社が苦しい時はひたすらじっと耐える」「楽観はしない、まし てや悲観もしない、ひたすら平常心で」
2019/07/01 -
2019.06.01
平成
新天皇が即位し、元号が「平成」より「令和」へ変わりました。生前退位ということで明るい雰囲気の中、数々の式典が執り行われました。いつも国民に寄り添い、国民のために祈って頂いた陛下、皇后には感謝しかありません。「天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした」という言葉に心震えました。明仁天皇、美智子皇后、今まで有り難うございました。
平成の約30年で日本の状況も大きく変化しました。平成元年、バブル景気で日経平均株価は38,915円最高値に達し、バブル崩壊やリーマン・ショックによる株価急落を経て長く低迷しました。平成21年最安値7,054円で底を打ち、平成24年大規模金融緩和や財政政策に支えられ徐々に持ち直し、平成終値は22,258円でした。元年当時、世界時価総額上位企業10社中8社が、1位NTT、2位住友銀行、3位日本興業銀行、4位第一勧業銀行など日本企業でした。それが現在は、1位マイクロソフト、2位アップル、3位アマゾン、4位グーグルなど10社中8社が米国企業で、アリババ、テンセントの2社のみ中国企業という状況です。日本企業の最高位はトヨタの42位(元年当時11位)となっています。結果的に平成という時代は日本の富が米国へ移動した30年だったのかもしれません。
私は個人的に平成に強い思い入れがあります。平成元年、人生を大きく変えるために宅配牛乳事業を起業する選択をして新たな第一歩を踏み出したからです。そして、その選択をしたばかりに、辛く苦しい体験、嬉しく楽しい体験を、それまでの人生よりもたくさんすることになります。その数々の体験、骨が記憶するぐらいの体験が、血となり肉となり、今の自分を作り上げていきました。平成以前の私は、夢があるわけでもなく、自分で何かをやり抜いた体験があるわけでもなく、何をやっても中途半端、なのに根拠のない自信と行動力だけは人一倍がある、そんな奴だったように思います。
起業後、乳業メーカーの後押しもあり仕事が次々に増えて、社員や配達アルバイトを増やしていきました。ところが、私の時間を守れないという致命的な欠点により、従業員から愛想をつかされ、一人、また一人と辞めていきました。当たり前ですが、人が辞めるたびに、やるべき仕事が一人分、二人分と自分にのしかかってきます。早朝4時からの配達が2時になり、12時になり、最悪の時には夜10時~翌朝10時まで配達、それが終わってから、卸売、自販機などの配達が夕方まで続きました。日曜日もパチンコ屋へ自販機の配達があり、休みもなく、長時間に及ぶ労働は本当に辛かった記憶があります。「なんで俺は毎日、こんなことをしているのだろうか」「いっその事ヤメようか」など、よく考えていました。笑い話ですが、後に社員が私の親父に「なぜ社長は会社を大きくできたのか」と尋ねられ「息子は若い頃、少なくともお前達よりも、よく働いとったで。休みなく、朝から晩まで(実際には夜中から夕方まで)働いとったわ。親戚からお前は自分の息子を殺す気かと、わしも叱られたことあるわ」と答えていました。実際、辞めていく人たちの配達を引き継いでいると、情けない思い、寂しい思いをたくさんしました。途中何度も諦めかけましたが、最後まで頑張り、立て直し、最後の配達を社員に引き継ぐことになりました。家族や友人は褒めてくれ、嬉しかった記憶があります。でも、もっと嬉しかったことがあります。それは、自分自身がやりきった、やり抜いたことを、自分を自分で初めて認めてあげることができたことです。今でも思い出すのは、楽しかったこと、上手くいったことより、長時間の辛い配達、ヤメようかと悩んだこと、みじめで情けない思いをしたこと、そんなことを鮮明に覚えています。そして、俺はやったやないか、逃げなかったやないかと、今思い出しても力が湧いてきます。自分がやったことは、たとえ世の中の誰も認めてくれなかったとしても、自分だけは、自分の心だけは、はっきりと覚えています。本当に不思議ですが、楽しかったことより辛く苦しかったことの方が良い思い出なんです。(今でもあの辛かった配達を夢で見ることがあります笑)
平成の始まりの苦しい体験は、その後の困難を乗り越えることのできる、大きな力を私に与えてくれました。平成の終わりに、令和に向けてある決意をしました。もう一度起業の頃の精神に戻り、心から楽しむにはどうすればいいかを考えてみました。人生はどれだけ生きたかではなく、どれだけ楽しんだかで決まる。楽しんだ人に失敗はない。人生は遊ぶためにある。人生はお祭りだ。そんな精神で生きていきたいと思います。詳しくは次号「令和」で書かせていただきます。
2019/06/01 -
2019.05.01
ICHIRO
日米の野球界で活躍したイチローが引退しました。冒頭この言葉しか思い浮かびません。イチロー、多くの夢と感動をありがとう。日米で28年間プレーしたイチローが残した記録は、オリックス9年 1,278安打、メジャー19年3,089安打、合計4367安打(非公式世界一)。オリックス7年連続首位打者、メジャー2回首位打者。2001年メジャー新人王とMVPを同年受賞、打率.350首位打者、242最多安打、56盗塁。2004年メジャー最多安打記録262本。イチローが残した記録は確かに凄い。しかし、記録よりもっと凄いと思うことは、継続する力であり、準備する力。どうやって継続し、そのためにどう準備してきたかが、達人の域だと思います。イチローと誰かの対談で「あくまでも計りは自分の中にあり、それを超えていくことが大事なことで、一気に高めていこうとすると、今の自分とギャップができて続けることができない、地道に進むしかない、自分がやると決めたことを信じてやっていく、でもそれが正解とは限らない、間違ったことを続けてしまっていることもある、でもそうやって遠回りすることでしか、本当の変わるべき自分に出会えない気がしている。自分なりに重ねていったことが結果的に記録となり残る」「自分ができると思ったことは必ずできるとは限らない。だけど自分ができないと思ってしまったら、それは絶対できない」「小さいことを積み重ねることが、とんでもない所へいく、ただ一つの道」との言葉を聞いた事があります。
日本で始まったメジャーの開幕戦は、まるでイチローの引退のために用意された舞台のように感じました。試合後、手を振りながらグランドを一周、その後、84分に及ぶ記者会見が始まりました。幾つか印象に残った言葉がありました。記者「後悔はありませんか?」の問いに「後悔などあろうはずがありません」この微塵も後悔のない言葉に心揺さぶられ、「人よりも頑張ったということはとても言えないですけど、自分なりに頑張ってきた」という「自分なり」に超一流の重みを感じました。記者「プロ野球選手になるという夢を叶えて、成功して、今何を得たと思うか?」の問いに「成功すると思うからやってみたい、それができないと思うからやらないという判断基準では後悔を生むだろうなと思います。やりたいならやってみればいい。できると思うから挑戦するのではなくて、やりたいと思えば挑戦すればいい。そのときにどんな結果が出ようとも後悔はないと思うんです。」成功とは単なる結果でしかない、やりたいと思うことを積み上げること、挑み続けることが大事なことだと。記者「我慢したことは?」の問いに「我慢できない人なんですよ。できること、楽なことやりたいことを重ねてる感じ、だから我慢の感覚がない。体を動かしたくてしょうがない、体を動かせないことが我慢。」本来なら辛いトレーニングを楽しくできるようにする天才的な才能があるのでしょうね。記者「最低50歳まで現役と言ってきましたが?」の問いに「有言不実行の男になってしまったわけですけど、でも、その表現をしてこなかったら、ここまでできなかったかなという思いもあります。だから、言葉にすること。難しいかもしれないけど、言葉にして表現することというのは、目標に近づくひとつの方法ではないかなと思っています。」言葉の使い方は大切ですね。記者「奥様への感謝の気持ちは?」の問いに「まあ、とにかく頑張ってくれました。僕はゆっくりする気はないですけど、妻にはゆっくりしてもらいたいと思っています。ホームの試合の時はゲーム前に妻が握ったおにぎりを食べるのですが、その数が通算2,800個くらいだったんですね。3,000個握らせてあげたかった」という言葉に、弓子夫人への深い愛と感謝がにじみ出ていました。記者「貫いたもの、貫けたものは?」の問いに「野球を愛したことだと思います。これは変わることはなかったです。」イチローの美学や哲学に触れることができた、歴史に残る引退会見でした。
イチローの記者会見を観て感じたのは、一流は一流言語を話すのだと。人が使う言葉にはそれぞれステージがあり、その人が使う言葉を聞きながら、そのレベルを測っているように思います。記者会見の中でイチローが「僕、おかしな事言ってます?」と連発していたのは、記者とのズレを敏感に感じ取っての事だったのかもしれません。私もこんな経験があります。ある人と数分話しただけで、「この人凄いかも?」とか「この声のトーン、落ち着く」逆に「内容の低さに疲れる」「声のトーンが苦手だったりして、響かない」と感じることも。エネルギー値や波動も有りますが、使う言葉の選択やボキャブラリーの深さによって、その人の歴史や価値観、人格など、その人の歩みが分かったりします。一流の人が使う言葉は、その人が目標に向かって努力する過程での思考や試行錯誤しながら答えを導く視点など、宝石のような経験が散りばめられています。一流言語が勉強できた記者会見でした。イチローは引退して元イチローになってからも、きっとさまざまな形で私に刺激や感動を与えてくれるに違いありません。これからの人生をより一層、楽しみながら挑戦する勇気をイチローからいただきました。「不可能の反対は可能ではなく挑戦だ!」 THANK YOU ICHIRO.
2019/05/01 -
2019.04.01
ぶち破れ!オレがヤル
約3年前、矢野燿大氏は久しぶりに阪神タイガースのユニフォームを着ることになりました。それに合わせて後援会を立ち上げ、事務局を当社デミックで預かることになりました。これをきっかけに本格的なお付き合いが始まりました。矢野燿大という男を紹介するとしたら、シャイで謙虚、読書家で勉強好き、ストイックに筋トレする努力家、内に秘めた闘志がヤバイ、ファンサービス日本一などの言葉が挙げられるでしょうか。ゆっくりですが、じっくり、彼と関わり、人柄に触れ、いつしか私にとって彼との交流は至福の時間となりました。
昨年、後援会で矢野監督就任祝いを開催し、会の終わりに締めの挨拶をさせていただきました。「本日は後援会を立ち上げてから一番嬉しい日となりました。懇親会中、真ん中の席からまわりをぐるりと見てみると、皆さんの喜ぶ顔がたくさんありました。そして、何よりも矢野監督自身の楽しそうな顔がそこにはありました。宴のど真ん中でその光景を見れたことに感謝しかありません。矢野さんが監督になるという突然の出来事に皆さん驚かれたと思います。予想できましたか?私は初夏ぐらいに、近未来必ず監督になると確信していました。監督就任の予感は矢野さんのマインドの変化によって気づきました。さすがに今年、金本監督の元、1軍ヘッドコーチを受諾した後にこのようなことが起こるとは予測できませんでした。しかし、金本監督の辞任のニュースが流れた瞬間に、次の監督は矢野さんがなると直感しました。新聞では岡田さんや掛布さんなどと書き立てられていましたが、近い人には矢野監督だと断言していました。矢野さんは最初の2年、金本監督の元、バッテリーコーチをしていました。2年目のシーズン終了後、矢野さんより『後援会を解散して欲しい』と申し出がありました。私が『なぜですか?』と問うと『申し訳ない、気を使うから』返ってきました。私は『私たちは矢野さん、あなたが好きだからやっています。一切気を使わなくていい。好きな野球を全力で楽しんでください』というと『甘えさせてもらいます』と。その後、二軍監督へ就任しました。矢野さんは昔から二軍監督がしたいと言っていました。この二軍監督というポジションが彼の運命を切り開くことになりました。一軍と違い二軍はのびのびと野球のできる環境があり、矢野さん自身の野球理論を試すことができました。トレーニング法、選手育成法、起用法など、本人の勉強好きも相まって彼は凄いスピードで進化・成長していきました。特に選手との関わり方やコミュニケーションの取り方は心理学をはじめとするたくさんの本を読み、それを取り入れました。時々開く会食時には、監督と経営者という役割の違いはあるものの人材起用や育成、成功する考え方などについて、いつも議論を戦わせていました。『この人経営の世界でも成功するわ』と感じることが度々ありました。二軍監督のポジションは気遣いができる謙虚な男を、内に秘めた闘志を表に現すことができる男に変えました。進化を遂げた二軍タイガースは当たり前ですが、ウエスタンリーグ優勝・盗塁記録更新・イースタン覇者ジャイアンツを破り日本一となりました。金本監督退団により一軍監督へと導かれました。まさにマインドを変えることにより人生を変えた一年となりました。運が良かったという方もいますが、運とはその人が歩いたプロセスによるところが大きいと思います。近くで見ていた私に言わせると監督就任も必然だったように感じています。結びに、矢野監督は素晴らしい男です。きっとやってくれると思います。しかし、長いペナントレースです。勝つばかりではなく負けこむことありますし、苦しい時もあると思います。そんな時にこそ皆さんの大きな声援が必要です。是非とも今後ますますの応援をお願いして、締めの挨拶といたします。」
人は誰でもそれぞれ長所があるにも関わらず、人生がうまくいくとは限りません。長所に気づいていないのか、それとも、それを活かす術を知らないのか。そうだとしたら、実にもったいないことです。自分のことも知らないのに、他のことを理解できる訳がありません。己を知らない人間が大成する道理がないということです。人生をより良きものにするためには、自己を知ることが必然だと思います。己を知れば、自分が他の人より秀でている部分に気づきます。それを活かすために自分に足りないこと、身につけなければいけないことを正しく認識できます。そうやって自分の課題が理解できたら、それを補い克服するための方法論を必死に考える。その繰り返しにこそ人生の妙味があるのだと思います。内に秘めたる闘志、負けん気が人一倍あるにもかかわらず、印象はシャイで謙虚。選手時代から本来の自分を表現することが苦手だったのかもしれません。二軍監督で開眼した、選手の意識の解放すなわち、己の意識の解放。今年の阪神タイガースのキャチフレーズ「ぶち破れ!オレがヤル」これこそが選手一人一人がマインドやメンタルを変えることで、自分自身の壁をぶち破れ、そんなメッセージが込められているように思います。昨年、マインドを変えることにより、大きなものを掴み取りました。しかし、私の知る矢野燿大は、まだまだこんなものじゃない。次の目標である優勝監督という称号を引っさげて、さらなる高みへと導かれていくように思います。今後ますますの矢野燿大への声援を宜しくお願いします。
2019/04/01 -
2019.03.01
はじめの第一歩
尼崎青年会議所(JC)シニアクラブの会長に就任することになりました。55年の歴史、メンバーの年齢40歳~90歳、メンバ-数400名以上、7代目の会長。光栄なことではあるけれど、本音は気が重いというのが実情です。これまでも、幾つかの団体やPTAなどの会長職をさせていただいたこともありましたが、今回のものは過去の会長職とはまったく違うもの、痺れるような緊張感を感じています。歴代シニア会長に花向けの言葉をいただきました。「挨拶は3ヶ月前から考えとけ。挨拶は準備に尽きる。いつも来るべきスピーチの日まで頭の中で考えておき、一時も忘れてはならん」「会長になるということは、見る側から見られる側に変わること。400名以上のメンバーの中で会長はお前1人、お前の立ち振る舞いや言動で自分が恥をかくのは自分の勝手だが、お前を担いでいる400名以上のメンバーも同じように恥をかくことを覚えておけ。どこへ行っても、どんな場所でも、どんな時でも見られていることを肝に銘じておけ」「苦しめ苦しめ、痺れろ痺れろ、しかしその環境の中で楽しめ」
まず、何をすべきかを自分なりに考えてみました。「何をするか?」ではなく「何のために?」が重要だと感じています。参考意見を聞くために、近隣の2001年度の同期JC理事長に連絡してみました。「近年は現役の人数も減り、それに伴いシニアの集まりもしぼんでしまい、ほとんど集まらない」「派閥ができて分裂してシニアクラブ自体がなくなった」など、参考になる話はなく、逆に残念な実情を聞いてしまいました。全国を見ても大なり小なりそんな傾向のようです。しかし、我が尼崎JCシニアクラブは、それとは全く反対で活況そのものです。シニアクラブには同行会があり、多くのメンバーが旅行やゴルフを大いに楽しんでいます。また、組織も任意団体にもかかわらず、50名以上の理事メンバーがいて、しっかりと運営されています。そして、何よりも素晴らしいのは「現役あってのシニア・シニアの一番の仕事は現役支援」との前会長の発信のもとシニアが現役を力強く支援し、シニアの旅行やゴルフに現役も多数参加して、良き関係を築いています。人には人柄、国には国柄があるように、JCにも、そのJC、そのJCで歴史や伝統の違いがあり、背負っているものも違います。日本中に誇ることができる尼崎JCシニアクラブはどうやって出来上がったのかを紐解くと、やはり故鴻池よしただ先輩を中心に歴代シニアクラブ会長の強烈なリーダーシップの功績だと思います。しかし、この素晴らしい歴史や伝統も、気を緩めると簡単に崩れてしまうようにも思います。私の最大の使命は、この素晴らしい尼崎青年会議所シニアクラブを素晴らしい姿のまま、次の会長へ引き継ぐことだと考えます。
今から30年前、27歳の時に牛乳宅配会社を起業、その数ヶ月後に尼崎青年会議所へ入会しました。その頃の私は朝4時に始まる早朝配達に寝坊、事務所は散らかり放題、アルバイトはすぐ辞める。JCも同じように出欠率3割3分3厘、出欠のFAXすら期限を守れない、そんな出来の悪い男でした。しかし、ある委員長との出会いが私を変えました。その委員長は私の会社へ挨拶に来てくれました。委員会開催時には必ず30分前に来て準備していました。欠席時には議事録がFAXされ状況を知らせてくれ、メンバーそれぞれに合わせて課題を与えました。委員会の後は楽しく懇親会、あっという間の1年間でした。「この人の為に頑張ろう、この人のようになりたい」と強く思ったことを、今でも記憶しています。それから私の自己改革が始まりました。早朝配達4時の30分前に出勤、事務所を整理整頓、出勤したアルバイトに元気に挨拶する、珈琲を差し出す、冗談言いながら積み込みを手伝う、元気に送り出す。帰ってきたら出迎えねぎらう、積み下ろしを手伝う。そんなことをしていると、あれだけ辞めていたアルバイトが、仕事が終わっても雑談をして帰らないようになり、まったく辞めなくなりました。私はその委員長から社長の一番の仕事は「人格を高めること」「人間性を磨くこと」だと教えていただきました。これがJCでのはじめの第一歩だったように思います。
JCにて現役13年、理事長も経験させていただきました。卒業後17年、仕事という名の遊びを夢中でやりました。尼崎から全国へ、近年は世界へと。あっという間の30年でした。決して順風満帆ではなかったけれど、自分なりの哲学を持って歩んでまいりました。気がつくと着地点を考えるような年齢になりましたが、まだ終われません。近年のビジネスは緩やかな角度での成長でしたが、この先は30年前の成長角度に戻し、ワクワクしながら挑んでいこうと思います。忘れてはならないことは、自分の中に流れている「人生を幸せにするルール」の大半は愛すべき尼崎青年会議所で学んだものです。尼崎青年会議所シニアクラブの会長としての第一歩は「人生を幸せにするルール」をメンバーの皆様と共有することだと考えています。
「That’s a very good question, thank you.」
良い質問をしてくれたおかげで視点が広がる、ありがとう
2019/03/01 -
2019.02.01
鴻池よしただ
私が尊敬してやまない鴻池よしただ先輩がご逝去されました。胸の中に大きな穴がぽっかりと空いたような気持ちです。鴻池先輩との出会いは私が尼崎青年会議所(JC)へ入会した時でした。最初は雲の上、そのまた上の憧れの存在でした。1980年に日本青年会議所会頭、その後衆議院議員~参議院議員へ。防災担当大臣、内閣官房副長官などを歴任し政界で活躍されました。
鴻池先輩が亡くなった数日後に開催された鎖の会(忘年会)で、鴻池先輩と50年の付き合いの竹瀬元紀先輩の締めの挨拶が感動的でした。「彼(鴻池)と私は50年の付き合いです。彼は28歳で尼崎JCに入会してきました。名前は鴻池、経歴は早稲田大学弁論部、それだけでも注目される存在でしたが、それ以上に彼のスピーチは素晴らしかった。私は本気で彼と友達になりたいと思いました。そんな感情に駆られたのは後にも先にも彼だけです。30歳過ぎた頃、彼の父親(勝治氏)が亡くなりました。彼は私だけを呼び『親父に会うてくれ』と言いました。葬儀後、彼は『会頭になる』と私に宣言しました。その夜、私たちは2人で兄弟の盃を交わし、私は彼を応援することを誓いました。私は彼に惚れました。惚れてしまったんです。私は彼を担ぐことを生涯の使命として、今日まで生きてきました。大阪JCを敵に回しての会頭選挙では多くの先輩方が反対され、圧力をかけられました。しかし、彼はブレなかった。微塵もブレなかったんです。だから、担ぐ我々もブレなかった。彼は念願の会頭となり尼崎JCを日本一へと導いてくれました。 JC卒業後、彼は自分の心の赴くまま政治家を志します。しかし、彼には何もありません。いや、彼にはJCしかなかったんです。一緒に会頭選挙を戦った尼崎JCメンバーを中心に、兵庫ブロックJCメンバーにもご支援していただきました。そして、勝ったり負けたりしながら、今の地位に落ち着きました。全国どこへ行っても鴻池を輩出した尼崎JC、誰もが一目置いてくれました。ありがたいことです。彼がいたから尼崎JCがあり、尼崎JCシニアクラブがあるんです。鴻池を亡くし私たちの尼崎JCは大きな柱を失いました。悲しい、本当に悲しい。しかし、彼が居なくなったとしても、彼が居た尼崎JCは未来永劫負けたらあかんのです。“尼崎は負けてはならん”そんな気持ちを忘れないで欲しいと思います」
鴻池先輩は常々尼崎JCシニアクラブは日本で3本の指に入る素晴らしいシニアクラブだと言われていました。「他のシニアクラブを見てみろ、派閥ができて2つに割れたり、参加者の少なさから解散したり、尼崎のように活発に活動しているシニアクラブは珍しい。尼崎には同好会がある。シニアメンバーが集い旅行へ行ったり、ゴルフや釣りをして、大いに楽しんどる。また、誇れるのは『現役あってこそのOB』『OBの一番の仕事は現役支援』という合言葉のもと資金援助や現役の拡大をシニアが手伝ったりと、他では聞いたことないわ。」と絶賛されていました。こんなに素晴らしいシニアクラブが出来上がったのは、やはり鴻池先輩という大きな柱を中心に歴代シニア会長が礼儀や規律を重んじ、しっかりした行動指針を示してきた賜物だと感じます。この良き伝統は簡単に築けるものではありません。逆に壊すのは簡単で、意識的に残すのだという気概がなければ簡単に壊れてしまいます。
「リーダーたるもの強さが必要です。しかし、強さを裏打ちする優しさも大切です。そしてこの、強さと優しさを裏打ちするものが正しさだと思います」「生きているということは誰かに借りを作るということ。生きてゆくということはその借りを返していくこと」「伝えたいこと 守りたいことがある」鴻池先輩の言葉にしびれ、胸に刻み、人生の行動指針となりました。周りがどう動こうが、自分の行く道は自分で決める。リーダーとして一番大切な条件「一人でもやる」という覚悟をいつも見せていただきました。最後まで「義理・人情・やせ我慢」を貫き通した、男として尊敬する生き様でした。ありがとうございました。心よりご冥福をお祈りいたします。
2019/02/01