Column 社長コラム
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2019.01.01
革命のファンファーレ
話題のカルロス・ゴーンが2年ほど前に「未来、日産のライバルになる企業はどこですか?」との質問に「グーグル」と答えていました。トヨタやフォルクスワーゲンなど の車業界ではなく、IT 業界と答えたことに、その時は驚きを感じました。しかし、IT 業界の仕事に少し関わっている最近、思うことはゴーンが恐れるぐらいグーグルの進化 は目覚ましいのだと。テクノロジーの変化はかつてないほど早く、今までのルールや枠 組みが時代遅れだと感じるようなスピード感で進化しています。過去のデータを正しく 分析することは最早意味がないことのように感じます。30 年前に宅配牛乳屋というビ ジネスモデルを選んだ理由は「高齢化社会到来(世界一の長寿国)」「健康志向(スポー ツクラブ増加)」「努力しない牛乳屋」この3つがポイントでした。案の定、この業界の 中で販促努力をした結果、多店舗展開、拡大路線を歩むことができました。しかし、こ の業界は牛乳屋 VS 牛乳屋という戦いによる、ゆっくりとした淘汰から、デジタル革命 による急激な淘汰へと変化しています。ライバルの存在が牛乳屋から Amazon、楽天、 おいしっくすなどデジタル企業へと変わりました。「牛乳だけ」から「牛乳もある」そ んなビジネスをしている業界と戦うには、相手に負けない武器を持ち、変貌しなければ 業界ごと生き残れないように思います。デリバリーも近未来は自動運転やナビゲーショ ンの進化により劇的に変化するだけではなく、デリバリー方法すらドローンなどに変化 していくのかもしれません。ワクワクする未来が迫ってきています。この波に乗り、自 分たちの手で、世界の輪郭に触れ、自由で新しい秩序を作り直さなければなりません。
我々牛乳宅配業界は、大手牛乳メーカーの意向の沿った形で、ルールを受け入れなが ら、なんとなく与えられた枠のようなものの中で生きてきた気がします。今まではそれ で良かったかもしれませんが、今から戦うことになるデジタル業界を相手に、それでは 生き残れません。大手メーカーの枠をはみだし、大手メーカー同士の壁を越えなければ なりません。ルールや規則を守り枠の中で生きていては変えることはできません。これ をしたら叱られる、あれをしたら潰される。それがどうした、そんなのことは関係ない。
新たな時代の本物は、誰かの作った枠をはみ出し、強烈な個性で自己主張をしなけれ ばなりません。そうでなければ、人々の心を動かし、魅了するようなビジネスモデルを 生み出すことはできません。予定調和は必要ない。与えられた仕事を段取り通りこなす。 そんな仕事のやり方は過去の話、無理と言われたら突破する。ダメだと言われても強行 する。半ば意識的に予定調和を破壊し、ありえない日程で計画を遂行する。多くの圧力 に対して無視し、オレには関係ないを貫く。誰に対しても、どんな場面でも、大きな声 で未来ビジョンを語り、言いたいことを言う。いつ潰されてもおかしくないから、危機 感が生まれ、どこに宝が埋まっているか分からないから血が騒ぐ。ギリギリの綱渡り、どっちへ転ぶか分からない危うい状態を走りながら楽しむ。そうやって初めて時代を変 えることができる。
こんな時代に対処するためには幼稚園児のようになろう。まっさらで身軽、目の前の ことを本能と直感で要望のまま受け入れていく人間が一番強い。いつでも幼稚園児、お やじになるな。勝ち残れ。おやじの言うことはすべて聞くことはない、そのかわりに誰 よりも動け。幼稚園児の表情はコロコロとカメレオンのように変化する。転んで頭を打 ち大泣きしていても、次の面白いものを発見した途端、大泣きをコロッと忘れてまた走 り出す。ほんの少し前に涙を流していたかと思うと、涙が枯れないうちから、ケラケラ 笑い出す。目の前に食べたいものがあると口へ放り込む、どんなに騒がしい環境であろ うと寝たければ寝る。やりたいこと、思ったことを即実行に移す。幼稚園児は無敵だ。 人生とは幼稚園児のままどこまで走れるかを競うレースのように思えます。誰もが大人 になっていきます。学校で洗脳され、会社に飼われ、常識を知り、ルールを覚え、人間 関係に縛られていく、そして、「ありのままの自分」を忘れていきます。破天荒な人生 は映画や小説の主人公に任せて、世の中に溶け込むことを受け入れる。幼稚園児レース から一人、また一人脱落していきます。常にありのまま、嫌なものは嫌、好きなものは 好き、やりたいことをやる、やりたくないことはやらない。
宅配牛乳ビジネスモデルが生き残るためにやるべきことはなんだろう。違う業界と手 を組む、営業はデジタル化、7時までに届ける早朝デリバリー、メーカー間の壁を越え 共同配達で効率アップ、小荷物も届ける。朝食を届ける、新聞を届ける。仕事が欲しい 運送屋と配達員の不足している牛乳屋とのマッチング、昼間は御用聞き、仕組みを変化 させる、やり方を変化させる、どんどん変わりゆく変化の波に対応する。誰もが踏み込 んだことのない未体験ゾーンへと歩みを進めていこうと思う。最初から負けることを考 えて戦いに行く馬鹿はいない。
「正しいことより楽しいこと」「過激にして愛嬌あり」「努力より夢中」 皆様にとって素晴らしい一年でありますように。今年もどうぞ宜しくお願いします。
2019/01/01 -
2018.12.01
未来の君たちへ
先日、靖国神社へ参拝してきました。靖国神社の中にある遊就館には大東亜戦争で亡くなった特攻隊員の遺書が展示されていました。やりたいこともたくさんあっただろうに、 その全てを犠牲にして散っていった命がある事実を深く受け止めました。それにひきかえ 今の日本では3万人の自殺者が毎年でていて、しかも特攻隊で亡くなった同世代の自殺者 が急増している事実を知り「これでいいのか日本」と憂いを感じています。遊就館にあっ た遺書の中に「未来の君たちへ」という題材の私たちに向けた遺書がありました。愛する 家族だけではなく、未来の日本人のことを案じて散っていった先人がいたことを思うと、 自分自身の生き様を少し恥じる気持ちがあります。私は物心ついた頃から、「豊かに生きた い」を人生の目標においていました。だから、起業動機も、それを「満たしたい一心」た だそれだけだったように思います。食事ぐらいはいつでも好きなものを食べたい。洋服ぐ らいは好きなものを好きなだけ買えるようになりたい。好きな車に乗り、大きな家に住み たい。そんな思いもあって豊かに生きることができるようになりました。しかし「衣食足 りて礼節を知る 衣食足りすぎて恥知らずになる」このような例えになるのかもしれませ ん。時代は流れゆくもの。自分のことだけを考え、難しい話はさておいて、臭いものには 蓋をする。そんな時代に生きながら、少しだけ、少しだけでいいから感じてみたい。そん なに遠くない過去の歴史の中に、私たちに自由を残してくれた先人たちがいたことを。そ のおかげで安心して暮らせる自由がある。食べるに困らない自由がある。仕事を選ぶ自由 がある。夢を持つことの自由がある。そんなことを忘れないでいたい。いや、忘れてはい けない。
昭和 19 年 6 月 15 日ついにサイパン島が陥落。B29 による日本本土の直接爆撃が可能とな った。さらに日本と南方の石油をつなぐ戦略的な要所であるフィリピンの攻略に米軍が動 いた。フィリピン本島。部下「大西中将、サイパンが陥落しました!米軍が来ます。」大西 「そうか、皆を招集しろ!」フィリピンを守る航空艦隊の戦力零戦、わずか 40 機。これだ けの戦力でどうしようもないことは明らかと思われた。大西「サイパンが陥落した、ここ は爆薬 250 kg抱かせて体当たりするほかに確実な攻撃方法はないと思うが……」隊員「や らせてください!」この時、全員が両手を上げてこの作戦に賛成した。当時の隊員たちの 士気はそんなものであったのだ。神風特別攻撃隊の編成である。特攻の父と呼ばれた大西 中将が特攻隊編成直後涙ながらに、隊員たちに語った言葉がある。「特攻は統率の外道であ る。」「もう戦争は続けるべきではない。」「ただアメリカを本土に迎えた場合、歴史に見る、 インディアン、ハワイ民族のように闘魂あるものは次々に各個撃破され、日本民族の再興 の機会は永久に失われてしまうだろう。」「しかし、特攻により、敵を追い落とすことができれば、七分三分の講和ができる。」「そのために….特攻を行ってでもフィリピンを最後 の戦場にしなければならない。」「しかしこれは、九分九厘成功の見込みなどない。」「では、 何故見込みのないのに、このような強行、愚行をするのか?」「ここに信じてよいことがあ る。」「いかなる形の講和になろうとも日本民族がまさに亡びんとする時に当たって、身を もって防いだ若者たちがいたという歴史の残る限り 500 年後、1000 年後の世に必ずや日本 民族は再興するであろう。」この言葉を胸に隊員たちは飛び立っていった。 (YouTube“神 風特攻隊「命の使い方」~日本人として知っておきたいこと~”より)
私たち日本人が大切にしてきたものが、私たちの手によって壊され、今の日本人に一番 足りないものになっています。武士の世の話、戦国乱世が終わり戦うことによる戦果、成 果を上げる場を失いました。江戸時代、何もすることがなくなった武士たちを農民や商人 の上に立たせました。田畑を耕すわけでもなく、ものを売るわけでもない。彼らが身につ けたものは儒教による道徳でした。儒教には仁・礼・信・義・智という徳目が示されてい ます。それが武士道となり、これらを習得して人を育てることに従事しました。つまり、 道徳心を養うことで、人の上に立ち人を育てる文化・習慣を培いました。だからこそ、日 本は世界で一番長く続く国なのかもしれません。その心や日本人としてのアイデンティテ ィーを取り戻すために何をすれば良いのでしょうか。最近少しだけ、守るべきもののため に生きる尊さのようなものを理解できるようになりました。今後守るべきものの枠を広げ て、未来の日本や日本人のために何ができるのか、何が残せるのか、自分の持ちうる力を 使って生きていければと考えます。
参考資料 upmaron. “神風特攻隊 「命の使い方」~日本人として知っておきたいこと~”2011.YouTube, URL: https://youtu.be/5w5TC4ppsIE (2018/11/12 閲覧)
2018/12/01 -
2018.11.01
西郷隆盛
2018年NHK大河ドラマの主人公は西郷隆盛です。幕末期の英雄・西郷を通して時代の変化に対応する考え方や人生の浮き沈みする経験の中での心のあり方、生き様などが、今の時代と重な り、今を生きる私自身の参考になったので書かせていただきました。日本史上の大きな転機と なる幕末維新は、たった25年の間に起こった出来事でした。事の始まりは黒船来航。幕府は開 国を要求してきたアメリカ大統領の将軍宛国書を諸大名に提示し意見を求めます。この時点で 約260年続く徳川幕府の力の低下が伺えますが、これを契機に外様大名が国政の舞台へ登場し始 めます。この先駆けになったのが薩摩藩主・島津斉彬。その側近として歴史の表舞台に登場し たのが西郷隆盛でした。
西郷は薩摩藩の貧しい下級武士の家に育ちますが、困った人を見ると放っておけず、自分の 給金も弁当も与えてしまう始末。西郷家はますます貧乏になり、家族は呆れ返るが、西郷は空 腹を笑い飛ばすような男だったようです。通常なら表舞台に立てる存在ではない西郷が、なぜ 斉彬に見出されたのか。若き日の西郷の仕事は、地方での年貢の徴収でした。新たな地方赴任 先で年貢の額を賄賂により塩梅している古い役人の存在がありました。西郷は怒って、新藩主 となった斉彬に古い役人の汚職ぶりを意見書として送りました。この出来事により斉彬が西郷 を見出すきっかけとなり、「今は藩政より国政への参画だ」との斉彬の思いから、斉彬の手足 となり江戸・京を奔走し、活躍することとになりました。斉彬との出会い、師弟関係へと進展 していく2人を共鳴させたのは正義感であり、この正義感により西郷は世に出たと言っても過 言ではありません。
その後まもなくして西郷を見出した斉彬は急死します。それにより、西郷の取り巻く環境も 一変、幕府から追われる身となります。新藩主・島津久光は斉彬派を城から駆逐していました。 窮した西郷は入水自殺をしますが、助けられ遠島されました。この遠島先・奄美大島では島民 の貧困を知り、愛に目覚めます。1度は藩へ帰されますが、再び久光の怒りを買い、2度目の 遠島となります。2度目の沖永良部島では死をも覚悟した絶望の淵で読んだ書物から「藩主や 藩士のために藩民がいるわけではない。藩民のために藩主や藩士が存在する。民を愛し、その ために仕事をするのが役人の役目だ」と毎夜のように天を仰ぎ、耳を傾け、自身の命の使い方 を考えました。そして、有名な思想「敬天愛人」が生まれました。
「西郷よ、民のためにもう一度立ち上がれ、命が尽きるまで働け」との多くの支持者の声で、 西郷は失意の遠島から華々しく京の政局の中心に戻ります。そこからわずか4年余りで、700年 に及ぶ「武士の世」を終わらせました。「禁門の変」で長州を撃退し、勝海舟や坂本龍馬ら盟 友と出会い、「薩長同盟」で長州と手を結び、「大政奉還」「王政復古の大号令」を成し遂げ、 「江戸城無血開城」へと歴史を動かしていきます。「天は私を選んだ。だから、天は味方して くれる。だから、金も要らなければ、命もいらぬ。私が期待に応えなければ、天は私を見放す だろう」晩年の頑固でかたくなな思いや行動は遠島時に培った心のあり方であり、天との対峙 によるものが大きかったように思います。坂本龍馬は西郷のことを「小さく叩けば小さく響く。 大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大馬鹿。もし利口ならお大利口」と言いました。
私たちは何かを行動に移そうとした時、「何がしたいのか」を自分自身に問います。しかし、 西郷は「何がしたいか」ではなく「何のために」を自分自身に問いただしたのだと思います。 西郷は民を愛し、故郷を愛し、国を愛し、すべての民が幸せに暮らしてこそ日本国は強くなる と信じていました。素顔は脇が甘く、愚直でうかつ。西郷に出会ったものは皆、彼のことを好 きになり、愛嬌溢れる男の周りにはいつも「笑いと愛」が満ちていました。行動のベースが愛 に基づいていて、まさに天が味方するリーダーだと思います。
西郷の最期は、新政府に不満を持つ士族を率いて西南戦争を引き起こし、その戦いに敗れ自 決します。明治天皇はそのことを知ると「殺せと命じた覚えはない」と激怒したといいます。
明治天皇は、日頃は温厚で時には君主としての行き様を厳しく指導する西郷に対し、特別な信 頼感を抱きその死を悼みました。時の流れや時代の変化は往々にして必要なリーダーの資質を 変えてしまいます。もしかすると、西郷はそのことを承知していて、維新を成し遂げ、そして 自ら幕を引いた、そんな男なのかもしれません。
2018/11/01 -
2018.10.01
豪雨
今月は「平成30年7月豪雨」の7月6日の私の出来事を書かせていただきます。今回の豪雨災害により亡くなった方々へのご冥福をお祈りいたします。「平成30年7月豪雨」とは6月28日から7月8日にかけて、西日本を中心に北海道や中部地方など全国的に広い範囲で記録された台風7号および梅雨前線等の影響による集中豪雨のことを言います。これまでの豪雨に比べ、広い地域で2日あるいは3日間の雨量が多いのが特徴で、西日本から東海地方にかけて、多くの地点で48時間、72時間雨量の観測史上最大値を更新しました。死者220人、行方不明10人、重傷69人、軽傷335人、全壊5,236人、半壊5,790人。気象庁は「今回の豪雨が過去の豪雨災害と比べて、極めて大きなものであった」とコメントしています。
私の7月6日は下のような予定でした。当日のメインイベントは大阪のプレスキルという有名なフレンチレストランでの、私が幹事役をしている十日会例会&懇親会の開催でした。東京のホテルにて朝6時に起床し、台風の影響も心配しながら羽田空港へ。飛行機は無事に飛び、時間どおり9時過ぎに伊丹空港に到着。空港からデミック本社へ移動中、商談相手から「高速道路が豪雨のため渋滞で動かないので商談を延期してほしい」と連絡がありました。本社へ帰る用事もなくなったのでロータリークラブ例会出席のため尼崎へUターンします。またまた尼崎へ向かう途中に、例会中止の連絡がありました。7月第1例会は年度替わりで新会長に代わる特別な日なので、楽しみにしていた新会長の挨拶を聞けず残念に思いました。14時、16時の商談、21時の交流会は交通状況を考慮してこちらから中止を申し出ました。12時の段階で18時の十日会の「開催か中止か」会長との協議の上、今のまま降りが優しくなっていけばと、様子を見ながら開催する方向でとの結論に至りました。しかし、雨は少し優しくなったものの降り続き、雨の危険性は時間を追うごとに増し、武庫川をはじめ尼崎を流れる河川の決壊が危惧される事態となりました。午後4時、JR、阪神電車に続き阪急電車もストップ。そこで中止を決定しメンバーやご婦人を含め約50人に大至急連絡しました。
東京から帰ってきたものの、全てのスケジュールが中止となりました。普段は自分の未来が詰まったスケジュール帳を見ながら一つ一つの仕事を楽しみながら進めていくのですが、この日は十日会の開催・中止の決断をするために大阪での待機を余儀なくされました。そこで普段できないことをやる1日にすることにしました。まず、なかなか食べに行けない尼崎 武庫之荘にあるお好み焼き「茶利」で昼食を食べました。その後、一度行きたかった大阪 西成にあるスパ・ワールドへ行き、世界の風呂を体験しました。風呂に携帯電話を持ち込み雨の情報収集をしている時に、阪急電車ストップの一報を受け十日会中止を決断し、全てのスケジュールが無くなりました。やれやれという気持ちで自宅へ帰ろうと車を走らせると、自宅へ帰る道路が高速道路もそれ以外の道路も全て通行止めでした。結局自宅へ帰れないことが決定しました。またまた、普段できないことはないかと考えました。なかなか会えていない知人に連絡し食事に付き合ってもらいました。知人との楽しい時間を終え、さて宿泊はどうしよう。普段宿泊するようなホテルも少し空きがありましたが、それじゃあ面白くないので、一度前からサウナのカプセルホテルに泊まってみたかったので「サウナ大東洋」に宿泊決定。大東洋ではのんびりと風呂、サウナを楽しみ、ダラダラと食事をしながら、休憩場にいる多くの人たちとサッカー観戦。結構多くの人たちがカプセルホテルを利用していることに驚きました。カプセルホテルというだけあり、本当にカプセルになっている個室にてベルギーVSブラジル戦を観ながら就寝、意外と楽しい一日となりました。
雨が降れば傘をさす。傘がなければ風呂敷でもかぶる。それもなければ濡れるしかない。
雨の日に傘がないのは、天気のときに油断して、その用意をしなかったからだ。雨に濡れて、はじめて傘の必要を知る。そして次の雨には濡れないように考える。雨があがれば、何をおいても傘の用意をしようと決意する。これもやはり、人生の一つの教えである。
わかりきったことながら、世の中にはそして人生には、晴れの日もあれば雨の日もある。好調の時もあれば、不調の時もある。にもかかわらず、晴れの日が少しつづくと、つい雨の日を忘れがちになる。好調の波がつづくと、ついゆきすぎる。油断する。これも、人間の一つの姿であろうか。
このことをいましめて昔の人は「治にいて乱を忘れず」と教えた。仕事にしても何にしても、この道理はやはり一つである。
雨が降れば傘をさそう。傘がなければ、一度はぬれるのもしかたがない。ただ、雨があがるのを待って、二度と再び雨にぬれない用意だけは心がけたい。雨の傘、仕事の傘、人生の傘、いずれにしても傘は大事なものである。(雨が降れば 松下幸之助. 道をひらく. PHP研究所, 1968)
<7月6日のスケジュール>
6時 起床
7時 ホテル発
8:00羽田→9:10伊丹
10時 本社にて商談
12時 ロータリークラブ例会
14時 大阪にて商談①
16時 大阪にて商談②
18時 十日会例会 懇親会
21時 交流会
2018/10/01 -
2018.09.01
ワールドカップ
サッカー界はワールドカップ開催前にハリルホジッチ監督解任という大きな決断をしました。解任については広告代理店やスポンサーの圧力や一部選手の造反など数々の噂が飛び交っていますが、この状況下で選出されたのが西野朗新監督でした。ハリル監督は自分の戦術・戦略を日本サッカーに植え付けたいと明確なものがあり、トップダウンで指示を出していました。西野監督はハリル監督のやり方でうまくいかなかったこともあり「みんなで話し合い、意見をぶつけ合い、自分たちで作り上げろ」というボトムアップ方式を採用しました。その後、選手たちの「思い・考え方」などを分析して戦略や起用法を練ったのだと考えられます。その結果、長谷部主将や大半の主力選手たちの口々から「チームの雰囲気が変わった」と。そこで抑圧されていた部分が解き放たれ、非常にコミュニケーションも増えて、チーム一丸となった印象があります。
グループステージでの対戦相手のFIFAランキングはポーランド8位、コロンビア16位、セネガル27位、日本は61位、グループ内でダントツの最下位。決勝トーナメント進出は絶望的だと言われていました。初戦の相手は、前回大会で惨敗を喫したコロンビア。今回は今までとは展開が違うというか、何かの力が働いたというか、とにかく力強くなったように感じました。香川がPKで先制すると、一度追いつかれるも大迫の決勝弾により2-1で勝利します。この勝利により、日本中が一丸となり日本チームに期待を寄せるようになった気がします。続くセネガル戦は引き分けに持ち込み勝ち点1を獲得。2度のビハインドを背負いながら追いつくという、今までにない粘りを魅せてくれました。ポーランド戦は初黒星を喫するも、グループ2位で決勝トーナメント進出を果たしました。
ポーランド戦での試合運びが波紋を呼びました。残り時間10分、コロンビア・セネガル戦の戦況により、日本はファール数の少なさから、このまま試合が終われば決勝トーナメント進出がみえてきました。西野監督は極めて大胆かつ恐ろしい勝負を仕掛けます。負けているのに、攻めずパスを回し、時間を稼ぎ、同点に追いつくよりも失点を防ぐことを優先しました。単体で見ると不本意の試合も、大枠で見ると違うものが見えてきます。この試合、ポーランドのクオリティーであれば、先発メンバーを使うことで勝ち点を取れたはずだが、それをしなかった。先発メンバーを6人も変えた。「疲弊していた。ギリギリの状態だった」と。ベスト16進出を得るためのなりふり構わぬ試合運び、という意見もある中、西野監督だけはベスト8という違う場所を見ていたのかも。ベスト16進出よりも、ベスト16で「勝つ」選択をしました。「ベスト8プラン」日本サッカー未開の地を見て采配を振るった西野監督に、勝負の世界に生きる勝負師の真髄、行き様に近い采配を見ました。
決勝トーナメントの相手はFIFAランキング3位のベルギー。日本は原口のゴールで先制。乾のミドルシュートにより追加点を奪い2点リードを手にした。「圧倒的不利」という大方の予想を裏切り日本史上初のベスト8進出が現実味を帯びてきました。日本中の誰しも「勝てるかも」と思った瞬間に何かが変わったように思います。緊張の糸が切れたから?勝負の波目が変わったから?前半は、ベルギーは強いとの認識の元、戦略を練っていましたが、2点先取したことにより心に隙ができたように感じます。一度緩んだ心の隙は簡単には元へ戻せませんでした。個々の強さ、うまさ、したたかさではベルギーは1枚も2枚も上でした。ベルギーの高さに対応できず同点にされると、最後はアディショナルタイムに鮮やかすぎるカウンターで決勝点を献上、掴みかけたベスト8進出はまたしても叶いませんでした。
大会前は、厳しい意見がサッカーファンにありました。選手たちはそのことをわかっていて、前回大会から2大会連続惨敗となると、日本サッカー界の衰退に及ぶ危機感を持っていました。電撃解任後のテストマッチでも結果を出せず、4年前も戦った選手からは、未来の命運も自分たちで背負って戦う覚悟が感じられました。長谷部主将は大会終了後「期待されていない雰囲気を絶対にひっくり返してやる。そういう思いは皆が持っていて、その思いが強かった分、皆さんの期待を取り戻せたことが嬉しい」「やってやったじゃないですけど、そういう気持ちはもちろんあります。逆に皆様の厳しい言葉はチームの大きな力になりました」とコメントしています。日本サッカー界の悲願であるベスト8に今までで一番近づいた大会でした。本当に惜しかった。しかし、負けは負けです。私の人生のルールでは「運はプロセスによるところが大きい」という考え方があります。それに当てはめるとポーランド戦での日本らしくないしたたかな戦い方からの、ベルギー戦でのしっぺ返し。もし、2-0でリードというシナリオを事前にシミュレーションしていたなら、結果が変わったような気がします。この2試合は未来の日本サッカー界に大きな意味があったよう思います。日本はチーム一丸となり全員で戦った時、世界の強豪とも互角に渡り合える力があると思いました。しかし、選手たちが限界を超えるぐらい走り、全員で守り、全員で攻めるサッカーをしなければ通用しません。世界との違いはメンタルとパワーだと分析します。今回のワールドカップを教訓にさらなる飛躍を期待します。夢のような時間をありがとうございました。
2018/09/01 -
2018.08.01
根っこ
仮想通貨の値上がりにより億り人(億万長者)となった後輩経営者に会う機会がありました。互いに忙しいので久しぶりの再会でした。冗談で、億り人になる情報をなぜ教えてくれなかったのかと尋ねると、彼は「増富社長にも何度か仮想通貨を買うように進めましたよ」とのこと。その時、私は「そんな夢のような話は信じられない。汗水垂らして働け」と、事もあろうに説教したようです。「なぜもっと強く勧めなかったのか」とまたもや説教することになってしまいました。億り人となった彼のライフスタイルは以前と比べ大きく変わりました。特に大きく変化したのは、自分自身の運気を上げるために、世界中のパワースポットや訪れたり、日本各地の有名な神社・仏閣へ参拝したりしていることでした。彼らの発想は自分自身の運気やパワーを上げることができれば、すべてを手に入れることができるという理論です。運気やパワーが上がると魂のステージが上がり、全てを上から見下ろすことができるのだと。人生の問題や悩みが解決する、事業を成功させ豊かな人生を手にいれる、家族をはじめ自分の周りにいる人を幸せにする、そんなことが当たり前に解決できる力を得られるようになるといいます。またそのような行動習慣の中で予知能力者や霊的能力者との出会いがあり、進むべき道に迷った時には、そんな先生方に相談しているとのことでした。私はその話に食いつきました。
私自身この3年間を振り返ってみると、「人生で最高の3年」という占い本を信じて、あれこれ事業投資を繰り返しましたが、あまり大した結果が得られなかったというのが実情でした。なぜ結果が出ないのか、何がうまくいかないのか、こんなことを聞いてみたくて、ある先生を紹介していただき相談に行く機会を得ました。その先生がいるのは誰もが知っている高級ホテルの一室でした。価格は普通の占いの5倍~10倍で、誰もが知っている政治家も定期的に相談も受けているようです。先生は淡々と私に質問してきます。最初は私の両親や祖父母について、次に父方と母方の家系のこと。母親の兄弟について聞かれ答えると「お母さんとお母さんの妹との間に男の兄弟がいたはずです」と、私が生まれる少し前に他界した母の弟のことを言い当てられ、先生の話に引き込まれていきました。家系の特徴を一通り教えていただいた後に、今後の私の人生をよくするためにやるべきことを教えていただきました。強く心に響いたのは「今生きているあなたの人生は多くのご先祖様に守られている」ということでした。「自分を守ってくれているご先祖様に対して感謝の気持ちがありますか」との質問に、何も答えられなくて反省しました。また、お墓のこと、仏壇のこと、宗派のこと、守護神のことなども詳しく教えていただき、まさに生かされていることが自分自身の中で腑に落ちました。改めて今後の人生を考えるきっかけとなりました。
そして先生に幾つか質問させていただきました。「60歳を前にして同世代は事業継承や終活を考える人が多くいるのに、まだ私は今からが本番で、夢の入り口辺りをウロウロしています。また、私の日常は多くのビジネスを抱えて、日本全国から世界へとステージを移そうとしています。益々、忙しくなり時間のない日々を過ごしています。そんな時間の余裕のない自分の人生が、果たしてこれでいいのだろうかとよく考えてしまいます。先生いかがですか」先生の答えは「増富さん、人は必ず使命を持って生まれてきます。使命は人それぞれ違います。増富さんの人生は事業欲旺盛で多くの事業を手がけることができます。それは凄く幸せなことなのです。そして、これを止めようと思っても止まりません。あなたはきっと死ぬ瞬間まで動いているんでしょうね。今やっている事業、これからやろうと考えている事業はきっと多くの人々、ひょっとしたら日本の国に役立つことかもしれません。そんな使命を帯びていることを自覚して、どうせ止められないんだから思い切ってやったらどうですか。そして、素晴らしい人生を歩ませていただいていることをご先祖様に感謝してくださいね」とお答えいただき、今年するべきことが明確になりました。
「父と母で2人 父と母の両親で4人 そのまた両親で8人 こうしてかぞえてゆくと10代前で1,024人 20代前では―? なんと100万人を越すんです 過去無量のいのちのバトンを受けついで いまここに 自分の番を生きている それが あなたのいのちです それがわたしの いのちです」(相田みつを『自分の番 いのちのバトン』)過去100万人の先祖の一人でも欠けたら私の命は存在しません。また、逆に自分自身の命は未来へと繋ぐ大事な命です。どんな容姿、どんな性格、人格や人間性までもご先祖様の贈り物だったのです。自分の持っているもの全ては過去から受け継いでいます。60歳を前にして、時間の大切さをしみじみと感じるようになりました。明日の命をも知れない人生の儚さを知りました。今日を今この一瞬一瞬を大切にして生きていきたいと願います。
しかし、大切なことは地に足つけて、感謝の心を忘れず、笑って楽しく人生を生きることだと思います。
2018/08/01 -
2018.07.01
最高のライバル
平昌オリンピックで1番感動したのが、前号で書いたフィギュアスケートの羽生結弦だとしたら、1番心震え涙したのがアイススケート500mの小平奈緒とイ・サンファ、2人のウイニングランでした。
小平奈緒、1986年生まれ、長野県出身。信州大学教育学部生涯スポーツ過程卒業、社会医療法人財団 慈泉会 相澤病院 スポーツ障害予防治療センター所属。平昌オリンピック500m金メダル、1000m銀メダル、オリンピック日本女子スピードスケート史上初の金メダル、日本選手団主将、遅咲きの32歳。経歴が変わっていて中学2年で500m中学記録を樹立するがスケート部のない伊那西高校進学コースへ、同好会から参加してインターハイで500mと1000mの2冠獲得、全日本ジュニアでも優勝。全国大会で活躍した選手の多くが練習環境の整った実業団へ進む中、実業団の勧誘を断り、清水宏保を金メダルへ導いた結城コーチに学ぶために信州大学に進学。当時、国立大学の信州大にはスポーツ推薦がなく一般入試を経て入学した。信州大卒業後、相澤病院にて勤務する。「長期出張」扱いとして競技に打ち込む傍ら、相澤病院のサポートを受け2010年バンクーバーオリンピックを目指して選手として活動する。バンクーバーオリンピック500m12位(イ・サンファ金メダル)、ソチオリンピック500m5位(イ・サンファ金メダル)。ソチ後、相澤病院に籍を置いたままオランダへ練習拠点を移す。ここでコーチに「謙虚な日本人では通用しない」とレースに対する気持ちの弱さを指摘され、メンタルトレーニングを通じて勝負への執着心を学ぶ。2年間のオランダ留学後、小平の快進撃が始まり、イ・サンファとの実力が逆転し始める。
小平奈緒とイ・サンファは良きライバルで親友であることを裏付ける秘話があります。2015年ソウルワールドカップで小平選手が初優勝をした時のことです。オランダへの帰路を急ぐ小平のために、イ・サンファは空港までのタクシーの手配と料金を払ってくれました。「負けて悔しい思いがあるはずなのに、助けてくれた。人としても、選手としても尊敬できる」と小平は言います。その時の2人の会話を平昌オリンピック500m競技終了後のインタビューで答えました。小平「次のオリンピックはあなたが勝って、私が2位ね」と言うと、イ・サンファ「それならあなたが勝って私が2位でいい」と言い合っていました。こんな会話からも2人の強い絆が伺えました。もう1つは今オリンピックで小平が500mを走り終え、36.94秒の好記録に両手を広げ力強くガッツポーズをした直後のことです。歓声に沸く会場の日本人ファンに対して、口元に指を当て静かにするように求めました。次に走るイ・サンファを気遣っての行動でした。そのような配慮を韓国メディアは「小平は人間性も金メダル級」だと。このような2人の関係から全世界が涙した2人のウイニングランへ繋がります。
小平は金メダル確定後、自国開催で重圧の中戦い、銀メダルに終わり涙を流すイ・サンファに駆け寄り抱きかかえるようにして「私はあなたを今でも尊敬している」と慰労すると、イ・サンファは「500mも1000mもうまく滑れるあなたが誇らしい」と応じました。小平は日本国旗を体に巻きつけ、イ・サンファと共に韓国国旗を持って、抱き支えながらウイニングランをしました。スポーツの世界でも日本への対抗心をむき出しにする韓国マスコミですが「日韓の爽やかな友情物語」として異例の扱いで記事になりました。
学生時代の経歴から小平は自分で考え、自分で決めて行動してきたことがわかります。道が分かれれば、自らの意思を尊重し方向を決める。それが世界で戦う支えだったように思います。少し人より時間がかかったけれど、誰かに与えられたのではなく、自分で掴み取ってきました。それが良かったのだと思います。オランダへの留学を機に小平選手の競技人生が開花しますが、それからも自分を支えてくれたコーチや病院の方々への感謝をいつも口にしていました。そんな素晴らしい人間性だからこそ、30歳を過ぎてアスリートとしてはピークを過ぎた年齢にも関わらず、小平には何か計り知れない力が働いたのだと思います。「人事を尽くして天命を待つ」というより、「人事を尽くして天命を掴み取る」という積極的な心が小平の人生を花開かせたのだと思います。
2018/07/01 -
2018.06.01
復活・羽生結弦
平昌オリンピックを観戦し、感動すると同時にスポーツの力に改めて驚かされました。今回のオリンピックは、開催前から多くの楽しみがありました。フィギュアスケート復活するか羽生結弦、男子ジャンプのレジェンド葛西紀明、女子ジャンプ今度こそ高梨紗羅、女子スピードスケート小平奈緒と高木美保など、ドキドキとワクワクの連続でした。その中から、私が感動した「復活・羽生結弦」と、次号で「小平奈緒とイ・サンファ 最高のライバル」について書かせていただきます。
羽生選手は2017年11月NHK杯前日の公式練習にて右足首を怪我し、3ヶ月後に控えた平昌オリンピックへの出場が危ぶまれました。羽生選手の復帰舞台は、平昌オリンピックぶっつけ本番のショートプログラムでした。「果たして本当に跳べるのか?」日本中のファンはそんなことを考えていたに違いありません。しかし、そんな周囲の不安をはねのけて王者は華麗に、そして完璧に氷上を舞ってみせました。「これでどうだ」と言わんばかりの鬼気迫る、今までに見せたことのない表情でフィニッシュしました。その後、リンクは割れんばかりの拍手と歓声、多くのファンから花束やくまのプーさんが投げ入れられました。羽生選手の復活を待ち望んでいたファンの多さを物語っていました。それはオリンピックの舞台ではなく、まるで羽生選手のワンマンショーの舞台のように思えました。オリンピックをワンマンショーに変えた羽生選手の凄さ、偉大さを目の当たりにし、この瞬間、金メダルを確信しました。当たり前のことですが、他選手達は力を発揮することはできず、思った通りの結果となりました。まるで、羽生選手のために用意された平昌オリンピックだったように思います。
ソチで金メダルを取ってからの羽生選手は、決して順風満帆ではなく、怪我や風邪と戦う4年でした。では、なぜ逆境の中で今回も金メダルに輝くことができたのでしょうか。羽生選手の言葉から紐解いてみました。「怪我で練習できない間、大学で筋肉解剖の論文やトレーニングのプランニングを学べました。」「計画通りきています、頭で半分取ったようなもの。」「世界中からこんなに応援される選手はいない。その限られた一人の選手として皆さんからパワーをもらっている。怪我も風邪も多い、なのに試合で力を発揮できるのは皆さんの応援があってこそ。」「僕は五輪を知っている。大きいことは言うなと言われるかもしれないけれど、僕は元オリンピックチャンピオンなので。」「褒める部分はない、まだ足りない部分ばかり、誰が取ろうが、僕も取ります。」
2月11日に平昌入りし、12日には本番のリンクにてわずか10数分の初練習。コーチ陣と握手、手応えをつかんだ様子。13日40分間の練習では美しい跳躍をアピール、14日、15日も軽く練習、16日ショートプログラム本番。このようなスケジュールで本番を迎えるわけですが、私が感じたことは、怪我で滑走練習できなかった日々を学びによってプラスに変えた。練習ができないのでオリンピック本番からの逆算でリスケジュールできた。滑走練習をできなかった分リンク外でのイメージトレーニングや筋トレなどを充実させた。その場、その時に、ただひたすらやれることをやってきた自信の裏返しでしょうか、12日の10数分の練習でやれると確信できた。などの理由で羽生選手が言うように怪我をしたからこそ連覇ができた、というのはうなずける話かもしれません。
そして忘れてはならないのは、羽生選手の発言の中心には、いつもファンへの気遣いや心遣いが感じられます。「ありがとうございます」「感謝します」など、いつもこのような言葉が前か後ろについています。4月23日、仙台にて10万人を集めたパレードで魅せた羽生選手のファンサービスの高さ、それに答えるファンの応援力を観て、一番の勝利要因は感謝する力のように感じました。
過去に、経営者数人で「どういう人材を引き上げたいか?」という話をしたことがあります。いくつか出た答えの中で、皆に共通していたのは「いつも自然に感謝できる人」でした。感謝できる人は上司、部下、取引先、お客様、など周りから好かれます。ちょっとした親切を忘れず、折に触れ感謝できたら、きっと周りももっと応援してあげたいという気持ちになるはずです。逆に感謝できない人は周りの親切や気配りが見えません。もしくは、すぐに忘れてしまいます。そうやって、感謝できる人、恩を忘れない人の評価は上がります。一流経営者は「受けた恩を忘れないというだけで、ある程度成功できる」と言います。羽生選手はフィギュアをやっていく過程で、多くの人の力を借りたことを忘れず、感謝の心を持ち続けている、それこそが羽生選手の強さの秘訣かもしれません。「ありがとう」を日常生活に増やすことができれば、人生に跳ね返ってくるかもしれませんね。感謝は高潔な魂の証。
2018/06/01 -
2018.05.01
君たちはどう生きるか VOL.4 ~ナポレオン~
主人公コペル君の友人ガッチンは、上級生から目をつけられ、強くなりたいという願望からナポレオンに強い憧れがありました。そして、コペル君たちがおじさんにナポレオンのことを教わる場面が書かれています。あまりに有名なフランスの英雄ですが、私はこの本で知るまで、深くナポレオンを知る機会がありませんでした。
ナポレオン・ボナパルト(1769~1821)、コルシカ島の落ちぶれ貴族の12人兄弟の4番目として生まれる。幼少期ナポレオンは無口で友達の少ない小柄な少年。フランス革命期の1784年パリ陸軍士官学校入学、24歳トウーロン島要塞を攻め落とした活躍により少将となる。その後、有名なアルプス越えの勝利を皮切りに、どこへ行っても勝利、勝利、勝利。フランスへ帰ってきたときにはパリ中の人気を一身に集めて凱旋将軍となっていた。少将からわずか10年、35歳で皇帝へと上り詰め、ヨーロッパ大陸はほぼナポレオンに服従していた。この時ナポレオンは文字通り王様の中の王様だった。
ナポレオンはとにかく強かった。わずか10年の間に一人の貧乏将校から皇帝の位まで一息に駆けのぼってしまった。国内の問題も外交も引き受けただけじゃなく大戦争を三つも四つもつづけざまに指揮した。ナポレオンは、どんな状況でも決して屈することがなかった。
一人の人間が、これほどまで強く、これほどまで活動的になれるものかと思うと、誰だって驚嘆しないではいられない。ゲーテのように、人道と平和とを愛し、人類の進歩に大きな希望をつないでくれた文豪でさえ、ナポレオンの話が出ると、いつもその湧き出るような活動力と天才的な決断力とを心から感嘆して語っていたくらいだ。
しかし、絶頂のナポレオンはわずか数年で破滅へと落ちていきます。ロシアへの遠征の大敗を機に、勢力範囲の国々が次々と反旗を翻し、戦いに敗れて捕らえられエルバ島に流された。エルバ島から脱出し、兵を集め、最後の決戦に挑むがこれも敗北に終わる。ナポレオンは捕虜となり、イギリス海軍によりイギリス本国へつれてこられた。
イギリスに着いて以来、ナポレオンはずっと船室にとじこもったまま暮らしていたので、波止場に集まった人々は彼の姿を見たいと思っても見ることができなかった。ところが、ある日、ナポレオンは久しぶりで外の空気に触れたくなり、とうとうその姿を甲板にあらわした。
思いがけず、有名なナポレオン帽をかぶった彼の姿を、ベルロフォーン号の甲板の上に認めたとき、数万の見物人は思わず息を呑んだ。今まで騒ぎ立っていた波止場が一時にシーンとしてしまった。そして、その次の瞬間――、数万のイギリス人は、誰がいい出すともなく帽子を取って、無言で彼に深い敬意を表して立っていたのだ。
戦いにやぶれ、ヨーロッパのどこにも身の置きどころがなく、いま長年の宿敵の手に捕らえられて、その本国につれてこられていながら、ナポレオンは、みじめな意気阻喪した姿をさらしはしなかったのだ。とらわれの身となっても王者の誇りを失わず、自分の招いた運命を、男らしく引き受けてしっかりと立っていたのだ。
そして、その気魄が、数万の人々の心を打って、自然と頭を下げさせたのだ。
流星の如く現れた場面と、捕虜となって囚われた場面、どちらも同じナポレオンの人生です。人々から見ると2つの場面でナポレオンの境遇は違って見えたのかもしれません。しかし、ナポレオンは自分の使命を、その時、その場面で果たしたに過ぎなかったのでしょう。時間があればナポレオンの残した功績を勉強したいと思いました。
参考文献:原作 吉野源三郎 漫画 羽賀翔一『漫画 君たちはどう生きるか』マガジンハウス,2017
2018/05/01 -
2018.04.01
君たちはどう生きるか VOL.3 ~貧乏について~
80年前に書かれたこの本にはその頃の貧しさについての考え方が書き綴られています。「コペル君、君も大人になってゆくにつれて、知って来ることだが、貧しい暮らしをしている人というものは、たいてい、自分の貧乏なことに、引け目を感じながら生きているものなんだよ。自分の着物のみすぼらしいこと、自分の住んでいる家のむさ苦しいこと、毎日の食事の粗末なことに、ついはずかしさを感じやすいものなのだ。」「人間の本当の値打ちは、いうまでもなく、その人の着物や住居や食物にあるわけじゃあない。どんなに立派な着物を着、豪勢な邸に住んでみたところで、馬鹿な奴は馬鹿な奴、下等な人間は下等な人間で、人間としての値打ちがそのためにあがりはしないし、高潔な心を持ち、立派な見識を持っている人なら、たとえ貧乏していたってやっぱり尊敬すべき偉い人だ。だから、自分の人間としての値打ちに本当に自信を持っている人だったら、境遇がちっとやそっとどうなっても、ちゃんと落ち着いて生きていられるはずなんだ。僕達も人間であるからには、たとえ貧しくともそのために自分をつまらない人間と考えたりしないように、また、たとえ豊かな暮らしをしたからといって、それで自分を何か偉いもののように考えたりしないように、いつでも、自分の人間としての値打ちにしっかりと目をつけて生きてゆかなければならない。貧しいことに引け目を感じるようなうちは、まだまだ人間としてダメなんだ。」人の価値に貧しさ、豊かさは関係がない、高潔な心と立派な見識が大事なことだと書かれています。
80年前はまだ太平洋戦争が始まる前でしたが、貧しい人が多かったことがよくわかります。その後、戦争に負けて焼け野原にされもっと貧しくなりましたが、先人たちの努力により見事に復興し、日本は経済大国になりました。しかし今、貧しいことや生活保護を受けていることを恥ずべきことだと実感している人は少ないように思います。どちらかと言うともらえるものはもらわなければ損だという風潮が蔓延しています。今の日本は、豊かになる努力をしない人が、豊かになる努力をして一生懸命に働く人に支えられています。どうもやりきれない時代に変化してきたように思います。「モノの豊かさ」と引き換えに「心の豊かさ」を無くしてしまったように感じているのは私だけでしょうか。「損得」の価値観が強くなりすぎて「善悪」の価値観がないがしろにされているようで、残念でなりません。江戸時代の寺子屋のように、人の生き方や倫理観を養う場が現代はあまりに少ないように思います。「相手の立場に立つ」「人の幸せを考える」など世界の国々のお手本となるような、日本人の素晴らしい国民性を無くしてはいけませんね。
私の幼少期、父は「自分の人生を試してみたい」と起業しました。最初は右も左も分からない商いの世界で苦労し、家は貧しかった記憶があります。しかし、一年365日休みもなく、朝早くから夜遅くまで一生懸命に仕事をこなし、徐々に普通の暮らしができるようになりました。そんな、頑張っている父の背中を見て育ったことが、私の人格形成にとても良かったと感じています。長い人生には、どんなに避けようとしても、どうしても避けて通れない厳しい道があります。そんな時、愚痴や弱音を吐かず黙って歩くことができたのは、父の背中を見て育ったからだと思います。生きていると厳しいことや苦しいことは必ずありますが、そんな時にこそ人間としての魂が磨かれます。男は強くなければ生きていけない、優しくなければ生きて行く資格がない、強さ優しさの根底にあるモノは正しさでなければならない。
参考文献:原作 吉野源三郎 漫画 羽賀翔一『漫画 君たちはどう生きるか』マガジンハウス,2017
2018/04/01