Column 社長コラム
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2018.09.01
ワールドカップ
サッカー界はワールドカップ開催前にハリルホジッチ監督解任という大きな決断をしました。解任については広告代理店やスポンサーの圧力や一部選手の造反など数々の噂が飛び交っていますが、この状況下で選出されたのが西野朗新監督でした。ハリル監督は自分の戦術・戦略を日本サッカーに植え付けたいと明確なものがあり、トップダウンで指示を出していました。西野監督はハリル監督のやり方でうまくいかなかったこともあり「みんなで話し合い、意見をぶつけ合い、自分たちで作り上げろ」というボトムアップ方式を採用しました。その後、選手たちの「思い・考え方」などを分析して戦略や起用法を練ったのだと考えられます。その結果、長谷部主将や大半の主力選手たちの口々から「チームの雰囲気が変わった」と。そこで抑圧されていた部分が解き放たれ、非常にコミュニケーションも増えて、チーム一丸となった印象があります。
グループステージでの対戦相手のFIFAランキングはポーランド8位、コロンビア16位、セネガル27位、日本は61位、グループ内でダントツの最下位。決勝トーナメント進出は絶望的だと言われていました。初戦の相手は、前回大会で惨敗を喫したコロンビア。今回は今までとは展開が違うというか、何かの力が働いたというか、とにかく力強くなったように感じました。香川がPKで先制すると、一度追いつかれるも大迫の決勝弾により2-1で勝利します。この勝利により、日本中が一丸となり日本チームに期待を寄せるようになった気がします。続くセネガル戦は引き分けに持ち込み勝ち点1を獲得。2度のビハインドを背負いながら追いつくという、今までにない粘りを魅せてくれました。ポーランド戦は初黒星を喫するも、グループ2位で決勝トーナメント進出を果たしました。
ポーランド戦での試合運びが波紋を呼びました。残り時間10分、コロンビア・セネガル戦の戦況により、日本はファール数の少なさから、このまま試合が終われば決勝トーナメント進出がみえてきました。西野監督は極めて大胆かつ恐ろしい勝負を仕掛けます。負けているのに、攻めずパスを回し、時間を稼ぎ、同点に追いつくよりも失点を防ぐことを優先しました。単体で見ると不本意の試合も、大枠で見ると違うものが見えてきます。この試合、ポーランドのクオリティーであれば、先発メンバーを使うことで勝ち点を取れたはずだが、それをしなかった。先発メンバーを6人も変えた。「疲弊していた。ギリギリの状態だった」と。ベスト16進出を得るためのなりふり構わぬ試合運び、という意見もある中、西野監督だけはベスト8という違う場所を見ていたのかも。ベスト16進出よりも、ベスト16で「勝つ」選択をしました。「ベスト8プラン」日本サッカー未開の地を見て采配を振るった西野監督に、勝負の世界に生きる勝負師の真髄、行き様に近い采配を見ました。
決勝トーナメントの相手はFIFAランキング3位のベルギー。日本は原口のゴールで先制。乾のミドルシュートにより追加点を奪い2点リードを手にした。「圧倒的不利」という大方の予想を裏切り日本史上初のベスト8進出が現実味を帯びてきました。日本中の誰しも「勝てるかも」と思った瞬間に何かが変わったように思います。緊張の糸が切れたから?勝負の波目が変わったから?前半は、ベルギーは強いとの認識の元、戦略を練っていましたが、2点先取したことにより心に隙ができたように感じます。一度緩んだ心の隙は簡単には元へ戻せませんでした。個々の強さ、うまさ、したたかさではベルギーは1枚も2枚も上でした。ベルギーの高さに対応できず同点にされると、最後はアディショナルタイムに鮮やかすぎるカウンターで決勝点を献上、掴みかけたベスト8進出はまたしても叶いませんでした。
大会前は、厳しい意見がサッカーファンにありました。選手たちはそのことをわかっていて、前回大会から2大会連続惨敗となると、日本サッカー界の衰退に及ぶ危機感を持っていました。電撃解任後のテストマッチでも結果を出せず、4年前も戦った選手からは、未来の命運も自分たちで背負って戦う覚悟が感じられました。長谷部主将は大会終了後「期待されていない雰囲気を絶対にひっくり返してやる。そういう思いは皆が持っていて、その思いが強かった分、皆さんの期待を取り戻せたことが嬉しい」「やってやったじゃないですけど、そういう気持ちはもちろんあります。逆に皆様の厳しい言葉はチームの大きな力になりました」とコメントしています。日本サッカー界の悲願であるベスト8に今までで一番近づいた大会でした。本当に惜しかった。しかし、負けは負けです。私の人生のルールでは「運はプロセスによるところが大きい」という考え方があります。それに当てはめるとポーランド戦での日本らしくないしたたかな戦い方からの、ベルギー戦でのしっぺ返し。もし、2-0でリードというシナリオを事前にシミュレーションしていたなら、結果が変わったような気がします。この2試合は未来の日本サッカー界に大きな意味があったよう思います。日本はチーム一丸となり全員で戦った時、世界の強豪とも互角に渡り合える力があると思いました。しかし、選手たちが限界を超えるぐらい走り、全員で守り、全員で攻めるサッカーをしなければ通用しません。世界との違いはメンタルとパワーだと分析します。今回のワールドカップを教訓にさらなる飛躍を期待します。夢のような時間をありがとうございました。
2018/09/01 -
2018.08.01
根っこ
仮想通貨の値上がりにより億り人(億万長者)となった後輩経営者に会う機会がありました。互いに忙しいので久しぶりの再会でした。冗談で、億り人になる情報をなぜ教えてくれなかったのかと尋ねると、彼は「増富社長にも何度か仮想通貨を買うように進めましたよ」とのこと。その時、私は「そんな夢のような話は信じられない。汗水垂らして働け」と、事もあろうに説教したようです。「なぜもっと強く勧めなかったのか」とまたもや説教することになってしまいました。億り人となった彼のライフスタイルは以前と比べ大きく変わりました。特に大きく変化したのは、自分自身の運気を上げるために、世界中のパワースポットや訪れたり、日本各地の有名な神社・仏閣へ参拝したりしていることでした。彼らの発想は自分自身の運気やパワーを上げることができれば、すべてを手に入れることができるという理論です。運気やパワーが上がると魂のステージが上がり、全てを上から見下ろすことができるのだと。人生の問題や悩みが解決する、事業を成功させ豊かな人生を手にいれる、家族をはじめ自分の周りにいる人を幸せにする、そんなことが当たり前に解決できる力を得られるようになるといいます。またそのような行動習慣の中で予知能力者や霊的能力者との出会いがあり、進むべき道に迷った時には、そんな先生方に相談しているとのことでした。私はその話に食いつきました。
私自身この3年間を振り返ってみると、「人生で最高の3年」という占い本を信じて、あれこれ事業投資を繰り返しましたが、あまり大した結果が得られなかったというのが実情でした。なぜ結果が出ないのか、何がうまくいかないのか、こんなことを聞いてみたくて、ある先生を紹介していただき相談に行く機会を得ました。その先生がいるのは誰もが知っている高級ホテルの一室でした。価格は普通の占いの5倍~10倍で、誰もが知っている政治家も定期的に相談も受けているようです。先生は淡々と私に質問してきます。最初は私の両親や祖父母について、次に父方と母方の家系のこと。母親の兄弟について聞かれ答えると「お母さんとお母さんの妹との間に男の兄弟がいたはずです」と、私が生まれる少し前に他界した母の弟のことを言い当てられ、先生の話に引き込まれていきました。家系の特徴を一通り教えていただいた後に、今後の私の人生をよくするためにやるべきことを教えていただきました。強く心に響いたのは「今生きているあなたの人生は多くのご先祖様に守られている」ということでした。「自分を守ってくれているご先祖様に対して感謝の気持ちがありますか」との質問に、何も答えられなくて反省しました。また、お墓のこと、仏壇のこと、宗派のこと、守護神のことなども詳しく教えていただき、まさに生かされていることが自分自身の中で腑に落ちました。改めて今後の人生を考えるきっかけとなりました。
そして先生に幾つか質問させていただきました。「60歳を前にして同世代は事業継承や終活を考える人が多くいるのに、まだ私は今からが本番で、夢の入り口辺りをウロウロしています。また、私の日常は多くのビジネスを抱えて、日本全国から世界へとステージを移そうとしています。益々、忙しくなり時間のない日々を過ごしています。そんな時間の余裕のない自分の人生が、果たしてこれでいいのだろうかとよく考えてしまいます。先生いかがですか」先生の答えは「増富さん、人は必ず使命を持って生まれてきます。使命は人それぞれ違います。増富さんの人生は事業欲旺盛で多くの事業を手がけることができます。それは凄く幸せなことなのです。そして、これを止めようと思っても止まりません。あなたはきっと死ぬ瞬間まで動いているんでしょうね。今やっている事業、これからやろうと考えている事業はきっと多くの人々、ひょっとしたら日本の国に役立つことかもしれません。そんな使命を帯びていることを自覚して、どうせ止められないんだから思い切ってやったらどうですか。そして、素晴らしい人生を歩ませていただいていることをご先祖様に感謝してくださいね」とお答えいただき、今年するべきことが明確になりました。
「父と母で2人 父と母の両親で4人 そのまた両親で8人 こうしてかぞえてゆくと10代前で1,024人 20代前では―? なんと100万人を越すんです 過去無量のいのちのバトンを受けついで いまここに 自分の番を生きている それが あなたのいのちです それがわたしの いのちです」(相田みつを『自分の番 いのちのバトン』)過去100万人の先祖の一人でも欠けたら私の命は存在しません。また、逆に自分自身の命は未来へと繋ぐ大事な命です。どんな容姿、どんな性格、人格や人間性までもご先祖様の贈り物だったのです。自分の持っているもの全ては過去から受け継いでいます。60歳を前にして、時間の大切さをしみじみと感じるようになりました。明日の命をも知れない人生の儚さを知りました。今日を今この一瞬一瞬を大切にして生きていきたいと願います。
しかし、大切なことは地に足つけて、感謝の心を忘れず、笑って楽しく人生を生きることだと思います。
2018/08/01 -
2018.07.01
最高のライバル
平昌オリンピックで1番感動したのが、前号で書いたフィギュアスケートの羽生結弦だとしたら、1番心震え涙したのがアイススケート500mの小平奈緒とイ・サンファ、2人のウイニングランでした。
小平奈緒、1986年生まれ、長野県出身。信州大学教育学部生涯スポーツ過程卒業、社会医療法人財団 慈泉会 相澤病院 スポーツ障害予防治療センター所属。平昌オリンピック500m金メダル、1000m銀メダル、オリンピック日本女子スピードスケート史上初の金メダル、日本選手団主将、遅咲きの32歳。経歴が変わっていて中学2年で500m中学記録を樹立するがスケート部のない伊那西高校進学コースへ、同好会から参加してインターハイで500mと1000mの2冠獲得、全日本ジュニアでも優勝。全国大会で活躍した選手の多くが練習環境の整った実業団へ進む中、実業団の勧誘を断り、清水宏保を金メダルへ導いた結城コーチに学ぶために信州大学に進学。当時、国立大学の信州大にはスポーツ推薦がなく一般入試を経て入学した。信州大卒業後、相澤病院にて勤務する。「長期出張」扱いとして競技に打ち込む傍ら、相澤病院のサポートを受け2010年バンクーバーオリンピックを目指して選手として活動する。バンクーバーオリンピック500m12位(イ・サンファ金メダル)、ソチオリンピック500m5位(イ・サンファ金メダル)。ソチ後、相澤病院に籍を置いたままオランダへ練習拠点を移す。ここでコーチに「謙虚な日本人では通用しない」とレースに対する気持ちの弱さを指摘され、メンタルトレーニングを通じて勝負への執着心を学ぶ。2年間のオランダ留学後、小平の快進撃が始まり、イ・サンファとの実力が逆転し始める。
小平奈緒とイ・サンファは良きライバルで親友であることを裏付ける秘話があります。2015年ソウルワールドカップで小平選手が初優勝をした時のことです。オランダへの帰路を急ぐ小平のために、イ・サンファは空港までのタクシーの手配と料金を払ってくれました。「負けて悔しい思いがあるはずなのに、助けてくれた。人としても、選手としても尊敬できる」と小平は言います。その時の2人の会話を平昌オリンピック500m競技終了後のインタビューで答えました。小平「次のオリンピックはあなたが勝って、私が2位ね」と言うと、イ・サンファ「それならあなたが勝って私が2位でいい」と言い合っていました。こんな会話からも2人の強い絆が伺えました。もう1つは今オリンピックで小平が500mを走り終え、36.94秒の好記録に両手を広げ力強くガッツポーズをした直後のことです。歓声に沸く会場の日本人ファンに対して、口元に指を当て静かにするように求めました。次に走るイ・サンファを気遣っての行動でした。そのような配慮を韓国メディアは「小平は人間性も金メダル級」だと。このような2人の関係から全世界が涙した2人のウイニングランへ繋がります。
小平は金メダル確定後、自国開催で重圧の中戦い、銀メダルに終わり涙を流すイ・サンファに駆け寄り抱きかかえるようにして「私はあなたを今でも尊敬している」と慰労すると、イ・サンファは「500mも1000mもうまく滑れるあなたが誇らしい」と応じました。小平は日本国旗を体に巻きつけ、イ・サンファと共に韓国国旗を持って、抱き支えながらウイニングランをしました。スポーツの世界でも日本への対抗心をむき出しにする韓国マスコミですが「日韓の爽やかな友情物語」として異例の扱いで記事になりました。
学生時代の経歴から小平は自分で考え、自分で決めて行動してきたことがわかります。道が分かれれば、自らの意思を尊重し方向を決める。それが世界で戦う支えだったように思います。少し人より時間がかかったけれど、誰かに与えられたのではなく、自分で掴み取ってきました。それが良かったのだと思います。オランダへの留学を機に小平選手の競技人生が開花しますが、それからも自分を支えてくれたコーチや病院の方々への感謝をいつも口にしていました。そんな素晴らしい人間性だからこそ、30歳を過ぎてアスリートとしてはピークを過ぎた年齢にも関わらず、小平には何か計り知れない力が働いたのだと思います。「人事を尽くして天命を待つ」というより、「人事を尽くして天命を掴み取る」という積極的な心が小平の人生を花開かせたのだと思います。
2018/07/01 -
2018.06.01
復活・羽生結弦
平昌オリンピックを観戦し、感動すると同時にスポーツの力に改めて驚かされました。今回のオリンピックは、開催前から多くの楽しみがありました。フィギュアスケート復活するか羽生結弦、男子ジャンプのレジェンド葛西紀明、女子ジャンプ今度こそ高梨紗羅、女子スピードスケート小平奈緒と高木美保など、ドキドキとワクワクの連続でした。その中から、私が感動した「復活・羽生結弦」と、次号で「小平奈緒とイ・サンファ 最高のライバル」について書かせていただきます。
羽生選手は2017年11月NHK杯前日の公式練習にて右足首を怪我し、3ヶ月後に控えた平昌オリンピックへの出場が危ぶまれました。羽生選手の復帰舞台は、平昌オリンピックぶっつけ本番のショートプログラムでした。「果たして本当に跳べるのか?」日本中のファンはそんなことを考えていたに違いありません。しかし、そんな周囲の不安をはねのけて王者は華麗に、そして完璧に氷上を舞ってみせました。「これでどうだ」と言わんばかりの鬼気迫る、今までに見せたことのない表情でフィニッシュしました。その後、リンクは割れんばかりの拍手と歓声、多くのファンから花束やくまのプーさんが投げ入れられました。羽生選手の復活を待ち望んでいたファンの多さを物語っていました。それはオリンピックの舞台ではなく、まるで羽生選手のワンマンショーの舞台のように思えました。オリンピックをワンマンショーに変えた羽生選手の凄さ、偉大さを目の当たりにし、この瞬間、金メダルを確信しました。当たり前のことですが、他選手達は力を発揮することはできず、思った通りの結果となりました。まるで、羽生選手のために用意された平昌オリンピックだったように思います。
ソチで金メダルを取ってからの羽生選手は、決して順風満帆ではなく、怪我や風邪と戦う4年でした。では、なぜ逆境の中で今回も金メダルに輝くことができたのでしょうか。羽生選手の言葉から紐解いてみました。「怪我で練習できない間、大学で筋肉解剖の論文やトレーニングのプランニングを学べました。」「計画通りきています、頭で半分取ったようなもの。」「世界中からこんなに応援される選手はいない。その限られた一人の選手として皆さんからパワーをもらっている。怪我も風邪も多い、なのに試合で力を発揮できるのは皆さんの応援があってこそ。」「僕は五輪を知っている。大きいことは言うなと言われるかもしれないけれど、僕は元オリンピックチャンピオンなので。」「褒める部分はない、まだ足りない部分ばかり、誰が取ろうが、僕も取ります。」
2月11日に平昌入りし、12日には本番のリンクにてわずか10数分の初練習。コーチ陣と握手、手応えをつかんだ様子。13日40分間の練習では美しい跳躍をアピール、14日、15日も軽く練習、16日ショートプログラム本番。このようなスケジュールで本番を迎えるわけですが、私が感じたことは、怪我で滑走練習できなかった日々を学びによってプラスに変えた。練習ができないのでオリンピック本番からの逆算でリスケジュールできた。滑走練習をできなかった分リンク外でのイメージトレーニングや筋トレなどを充実させた。その場、その時に、ただひたすらやれることをやってきた自信の裏返しでしょうか、12日の10数分の練習でやれると確信できた。などの理由で羽生選手が言うように怪我をしたからこそ連覇ができた、というのはうなずける話かもしれません。
そして忘れてはならないのは、羽生選手の発言の中心には、いつもファンへの気遣いや心遣いが感じられます。「ありがとうございます」「感謝します」など、いつもこのような言葉が前か後ろについています。4月23日、仙台にて10万人を集めたパレードで魅せた羽生選手のファンサービスの高さ、それに答えるファンの応援力を観て、一番の勝利要因は感謝する力のように感じました。
過去に、経営者数人で「どういう人材を引き上げたいか?」という話をしたことがあります。いくつか出た答えの中で、皆に共通していたのは「いつも自然に感謝できる人」でした。感謝できる人は上司、部下、取引先、お客様、など周りから好かれます。ちょっとした親切を忘れず、折に触れ感謝できたら、きっと周りももっと応援してあげたいという気持ちになるはずです。逆に感謝できない人は周りの親切や気配りが見えません。もしくは、すぐに忘れてしまいます。そうやって、感謝できる人、恩を忘れない人の評価は上がります。一流経営者は「受けた恩を忘れないというだけで、ある程度成功できる」と言います。羽生選手はフィギュアをやっていく過程で、多くの人の力を借りたことを忘れず、感謝の心を持ち続けている、それこそが羽生選手の強さの秘訣かもしれません。「ありがとう」を日常生活に増やすことができれば、人生に跳ね返ってくるかもしれませんね。感謝は高潔な魂の証。
2018/06/01 -
2018.05.01
君たちはどう生きるか VOL.4 ~ナポレオン~
主人公コペル君の友人ガッチンは、上級生から目をつけられ、強くなりたいという願望からナポレオンに強い憧れがありました。そして、コペル君たちがおじさんにナポレオンのことを教わる場面が書かれています。あまりに有名なフランスの英雄ですが、私はこの本で知るまで、深くナポレオンを知る機会がありませんでした。
ナポレオン・ボナパルト(1769~1821)、コルシカ島の落ちぶれ貴族の12人兄弟の4番目として生まれる。幼少期ナポレオンは無口で友達の少ない小柄な少年。フランス革命期の1784年パリ陸軍士官学校入学、24歳トウーロン島要塞を攻め落とした活躍により少将となる。その後、有名なアルプス越えの勝利を皮切りに、どこへ行っても勝利、勝利、勝利。フランスへ帰ってきたときにはパリ中の人気を一身に集めて凱旋将軍となっていた。少将からわずか10年、35歳で皇帝へと上り詰め、ヨーロッパ大陸はほぼナポレオンに服従していた。この時ナポレオンは文字通り王様の中の王様だった。
ナポレオンはとにかく強かった。わずか10年の間に一人の貧乏将校から皇帝の位まで一息に駆けのぼってしまった。国内の問題も外交も引き受けただけじゃなく大戦争を三つも四つもつづけざまに指揮した。ナポレオンは、どんな状況でも決して屈することがなかった。
一人の人間が、これほどまで強く、これほどまで活動的になれるものかと思うと、誰だって驚嘆しないではいられない。ゲーテのように、人道と平和とを愛し、人類の進歩に大きな希望をつないでくれた文豪でさえ、ナポレオンの話が出ると、いつもその湧き出るような活動力と天才的な決断力とを心から感嘆して語っていたくらいだ。
しかし、絶頂のナポレオンはわずか数年で破滅へと落ちていきます。ロシアへの遠征の大敗を機に、勢力範囲の国々が次々と反旗を翻し、戦いに敗れて捕らえられエルバ島に流された。エルバ島から脱出し、兵を集め、最後の決戦に挑むがこれも敗北に終わる。ナポレオンは捕虜となり、イギリス海軍によりイギリス本国へつれてこられた。
イギリスに着いて以来、ナポレオンはずっと船室にとじこもったまま暮らしていたので、波止場に集まった人々は彼の姿を見たいと思っても見ることができなかった。ところが、ある日、ナポレオンは久しぶりで外の空気に触れたくなり、とうとうその姿を甲板にあらわした。
思いがけず、有名なナポレオン帽をかぶった彼の姿を、ベルロフォーン号の甲板の上に認めたとき、数万の見物人は思わず息を呑んだ。今まで騒ぎ立っていた波止場が一時にシーンとしてしまった。そして、その次の瞬間――、数万のイギリス人は、誰がいい出すともなく帽子を取って、無言で彼に深い敬意を表して立っていたのだ。
戦いにやぶれ、ヨーロッパのどこにも身の置きどころがなく、いま長年の宿敵の手に捕らえられて、その本国につれてこられていながら、ナポレオンは、みじめな意気阻喪した姿をさらしはしなかったのだ。とらわれの身となっても王者の誇りを失わず、自分の招いた運命を、男らしく引き受けてしっかりと立っていたのだ。
そして、その気魄が、数万の人々の心を打って、自然と頭を下げさせたのだ。
流星の如く現れた場面と、捕虜となって囚われた場面、どちらも同じナポレオンの人生です。人々から見ると2つの場面でナポレオンの境遇は違って見えたのかもしれません。しかし、ナポレオンは自分の使命を、その時、その場面で果たしたに過ぎなかったのでしょう。時間があればナポレオンの残した功績を勉強したいと思いました。
参考文献:原作 吉野源三郎 漫画 羽賀翔一『漫画 君たちはどう生きるか』マガジンハウス,2017
2018/05/01 -
2018.04.01
君たちはどう生きるか VOL.3 ~貧乏について~
80年前に書かれたこの本にはその頃の貧しさについての考え方が書き綴られています。「コペル君、君も大人になってゆくにつれて、知って来ることだが、貧しい暮らしをしている人というものは、たいてい、自分の貧乏なことに、引け目を感じながら生きているものなんだよ。自分の着物のみすぼらしいこと、自分の住んでいる家のむさ苦しいこと、毎日の食事の粗末なことに、ついはずかしさを感じやすいものなのだ。」「人間の本当の値打ちは、いうまでもなく、その人の着物や住居や食物にあるわけじゃあない。どんなに立派な着物を着、豪勢な邸に住んでみたところで、馬鹿な奴は馬鹿な奴、下等な人間は下等な人間で、人間としての値打ちがそのためにあがりはしないし、高潔な心を持ち、立派な見識を持っている人なら、たとえ貧乏していたってやっぱり尊敬すべき偉い人だ。だから、自分の人間としての値打ちに本当に自信を持っている人だったら、境遇がちっとやそっとどうなっても、ちゃんと落ち着いて生きていられるはずなんだ。僕達も人間であるからには、たとえ貧しくともそのために自分をつまらない人間と考えたりしないように、また、たとえ豊かな暮らしをしたからといって、それで自分を何か偉いもののように考えたりしないように、いつでも、自分の人間としての値打ちにしっかりと目をつけて生きてゆかなければならない。貧しいことに引け目を感じるようなうちは、まだまだ人間としてダメなんだ。」人の価値に貧しさ、豊かさは関係がない、高潔な心と立派な見識が大事なことだと書かれています。
80年前はまだ太平洋戦争が始まる前でしたが、貧しい人が多かったことがよくわかります。その後、戦争に負けて焼け野原にされもっと貧しくなりましたが、先人たちの努力により見事に復興し、日本は経済大国になりました。しかし今、貧しいことや生活保護を受けていることを恥ずべきことだと実感している人は少ないように思います。どちらかと言うともらえるものはもらわなければ損だという風潮が蔓延しています。今の日本は、豊かになる努力をしない人が、豊かになる努力をして一生懸命に働く人に支えられています。どうもやりきれない時代に変化してきたように思います。「モノの豊かさ」と引き換えに「心の豊かさ」を無くしてしまったように感じているのは私だけでしょうか。「損得」の価値観が強くなりすぎて「善悪」の価値観がないがしろにされているようで、残念でなりません。江戸時代の寺子屋のように、人の生き方や倫理観を養う場が現代はあまりに少ないように思います。「相手の立場に立つ」「人の幸せを考える」など世界の国々のお手本となるような、日本人の素晴らしい国民性を無くしてはいけませんね。
私の幼少期、父は「自分の人生を試してみたい」と起業しました。最初は右も左も分からない商いの世界で苦労し、家は貧しかった記憶があります。しかし、一年365日休みもなく、朝早くから夜遅くまで一生懸命に仕事をこなし、徐々に普通の暮らしができるようになりました。そんな、頑張っている父の背中を見て育ったことが、私の人格形成にとても良かったと感じています。長い人生には、どんなに避けようとしても、どうしても避けて通れない厳しい道があります。そんな時、愚痴や弱音を吐かず黙って歩くことができたのは、父の背中を見て育ったからだと思います。生きていると厳しいことや苦しいことは必ずありますが、そんな時にこそ人間としての魂が磨かれます。男は強くなければ生きていけない、優しくなければ生きて行く資格がない、強さ優しさの根底にあるモノは正しさでなければならない。
参考文献:原作 吉野源三郎 漫画 羽賀翔一『漫画 君たちはどう生きるか』マガジンハウス,2017
2018/04/01 -
2018.03.01
君たちはどう生きるか VOL.2
「君たちはどう生きるか」の漫画を読み進めていくと、いじめっ子といじめられっ子、それを取り巻く子供達の人間関係や成長が描かれています。主人公コペル君のクラスメイト、いじめられっ子の浦川君は油揚げ屋さんの息子で、毎日弁当のおかずは油揚げだけです。いじめっ子の山口君一派は浦川君を“あぶらあげ”と呼びバカにします。周りの子供達は、何か言ったら次は自分が狙われると思って誰も何も言えません。しかし、ある日“ガッチン”と呼ばれる正義感の強い子が立ち上がります。「卑怯だぞ山口、弱いものいじめをして」ガッチンと山口君のつかみ合いが始まりました。すると、クラスの大半がガッチンの味方につき、山口君に襲い掛かります。その時意外にも、いじめられていた浦川君がみんなに「許してやっておくれ」と、言って自分をいじめていた山口君を助けます。周りの勢いに乗っかって、山口君に仕返しをしたい気持ちもあったはずですが、一方的にいじめられることがどれだけ嫌だったか、周りの流れに勇気を振り絞って逆らいました。浦川君は本当に立派でした。おじさんのノートには、「英語や数学なら、僕にでも教えることはできる。しかし、人間が集まってこの世の中を作り、その中で一人一人が、それぞれ自分の一生をしょって生きてゆくということに、どれだけの意味があるのか、どれだけの値打ちがあるのか、ということになると、僕はもう君に教えることはできない。」と経験の大切さが書かれています。
昔、新入社員に飛び込み営業研修は「負ける練習」だという訓示をしたことがありました。「みなさんは大学を卒業するまで立派なご両親に支えられて、何不自由なく生きてこられたと思います。今回、初めて就職して自分の足で立ち、自分の足で歩かなければなりません。それが生きていくと言うことです。飛び込み営業でお客様のお宅に訪問してもほとんどの方に受け入れられません。その状況の中で、どうしたらお客様に話を聞いていただけるか、どうしたら受け入れられるのか、それを考えて欲しい。前もってその地域のことを調べたり、販売する商品のことを調べたりすることが、最低限必要です。それでもほとんどの方に話を聞いてもらえないと思います。それこそが負ける練習です。長い人生では、カッコよく勝つことよりも無様に負けたり、だらしなく恥をさらしたりすることの方がはるかに多いはずです。人は負け方を知るとやさしく温かい人間になれると言います。負けること、恥をかくことを素直に受け入れることができると、人として楽に生きることができるようになります。」
私たちは誰もが、人間関係の中で生きなければなりません。そして、自分を取り巻く人間関係の中でしか自分の「道」は見つかりません。だからこそ、良い人間関係が、良い「自分の道」をつくるための必須条件だと思います。私たちは、自分にとって大切な人との関係を大切にしなければ、「自分の道」を見出し、作り上げていくことはできないように思います。家庭でも、地域社会でも、職場でも、大切な人を大切にしながら、気負わずに生きていけたらいいなと思っています。
着実に「自分の道」をひらいていくためには、自分の目で見たもの、自分で感じたものを大切にすることが大事だと思います。人生を生きていると数学のように答えがあるものだけではなく、簡単に答えを見出せないことも多々あると思います。道は自分でつくる。道は自分で開く。人のつくったものは自分の道にはなりません。自分の目で見たもの、自分で感じたものを一番信じる。後悔のないように、自分の道を自分らしく歩いていきたいですね。
2018/03/01 -
2018.02.01
君たちはどう生きるか VOL.1
最近読んだ漫画「君たちはどう生きるか」に大きく心揺さぶられたので紹介させていただきます。原作者は吉野源三郎氏。今から80年前、1937年に新潮社から刊行された児童文学を羽賀翔一氏が漫画としてリニューアルしました。主人公は15歳の少年・本田潤一、あだ名は「コペル君」。父親は3年前に他界して、母親と暮らす。母の実弟「おじさん」と仲が良く、漫画ではコペル君の体験とおじさんのノートが交互に登場するつくりになっています。ある日2人で出かけたデパートの屋上。コペル君には屋上から見える人の流れが、まるで水の流れのように見えました。「目を凝らしても見えないような遠くにいる人たちだって、世の中の大きな流れを作っている一部、もちろん近くにいる人もおじさんも僕も」。自分の都合だけで捉える狭い世界から「広い世の中」の中にいる自分を見つめ直します。おじさんは、地球が宇宙の中心という天動説から、地球が太陽の周りを回っているという地動説を唱えた、コペルニクスのような発見だったとノートに書き記します。昔の人はみなコペルニクスが地動説を唱えるまで、太陽や星が地球の周りを回っていると信じていました。これは、一つはキリスト教の教会の教えで、地球が宇宙の中心だと信じていたせいもありますが、もう一歩深く考えると、人間はいつでも自分を中心としてモノを見たり考えたりする性質を持っているためなのです。ところが、コペルニクスがどうしても説明のつかない天文学上の事実に出会い、頭を悩ました末、思いきって地球の方が太陽の周りを回っていると考えてみると、今まで説明のつかなかったことが綺麗な法則で説明がつくようになりました。その後ガリレイやケプラーが研究を続け、今日では地動説が当たり前のことになりました。子供の頃は誰しも天動説のように自分を世の中の中心において物事を考えます。それが、子供から大人へと成長するにつれて大きな世の中で生きる自分を理解するようになります。
私が昔熱狂したキャロルという伝説的なバンドを思い出しました。キャロルはキャバレーでのバンド演奏を経てメジャーデビューを果たし、大ヒットを飛ばしますが、2年半後に電撃的に解散しました。そのリーダーが矢沢永吉でした。矢沢は「本気で成功する」と心に決めて広島から上京しました。他のメンバーは好きな音楽を楽しみ、デビューすることを最終目的に考えていたのだと思います。当たり前ですが音楽に対する姿勢も将来についても真面目に考えている矢沢とでは、ずれが生じてきます。矢沢はやっと軌道に乗ってきたので解散はしたくなかった。しかし、他のメンバー主導で解散が決まりました。矢沢は「俺はスーパースターになってやる」と、言葉通りの生き方をし、他3人とは大きく生き方が違っていきます。
天動説的な生き方をするか、地動説的な生き方をするかで人生は大きく変わります。大きな視野を持ち、目標を掲げ、自分自身を高めていくと、知らず知らずのうちに目標や夢のあり方が変わり、価値観や生き方が変わっていきます。同じように生きていても、普通の人たちに見えないものが見えるようになり、存在感が増し、周りから浮いた存在になることもあります。そこで大事なことは、周りの人に間違っていると批判されようが陰口を言われようが自分の考えを信じ貫き通すことです。それこそが人が生きる上での大義だと思います。みんなで一つの輪になって肩を寄せ合う生き方は、楽で小さな幸せがそこにはあるのかもしれません。しかし、未来こうなりたい、ああなりたいという願望のある人は、そんな輪を叩き壊して、羽ばたかなければなりません。周りの人が自分に対してどんなことを思っていたとしても、それは、自分の人生とは関わりのないことだと思うから…。
2018/02/01 -
2018.01.01
日本覚醒
海外へよく出掛けるようになり、日本と海外の国々の違いを感じることが多々あります。日本人の素晴らしい点は、誠実、素直、約束や時間を守る、義理と人情などを重んじるところだと思います。日本人は基本「こんなことをしたら相手が困る」「こんなことをしたら相手はどう思うだろうか」と相手のことを気遣います。しかし、外国人は「自分がどうしたいか」この考えに基づいて行動する人が主流だと思います。どちらが良い、悪いという話ではなく、世界には様々な価値観や考え方があり、日本人の当たり前は、むしろ世界では当たり前のことは少なく、珍しいことだと認識しておく必要が有ります。そして、一昔前の海外では日本人のビジネスマンや若者が目立っていましたが、最近はどこへ行っても中国・韓国のビジネスマンや若者達の勢いを感じます。彼らの海外にかける思いは日本のビジネスマンや若者とは比較になりません。原則ルールは無用、あるとすれば弱肉強食、白か黒か、勝つか負けるか、やるかやられるか。そして未来は、中国や韓国だけではなく、多くの発展途上国が世界へ出てくるでしょう。このような環境下で、次世代人たちは日本という国を背負い戦い、生き抜かなくてはなりません。海外の考え方を知った上で、したたかさや多少のずるさも必要なのではないでしょうか。
海外に出てみよう。横並びで「個」は育たない、「個」を育てたければとにかく海外に出ることだと思います。何でもない自分、ちっぽけな自分を全身で感じて、そこから自分で立つ。個を成長させるホップ・ステップ・ジャンプがあるとするならば、ホップ「自立する」、ステップ「自信(個として)をつかむ」、ジャンプ「自由(本当の意味での)を手にする」ではないでしょうか。
バブル崩壊、政治の停滞、中国の台頭、失われた20年を経て、尚も傾き続ける日本。2030年、団塊の世代が80歳を超え、団塊ジュニアが60代に差し掛るときまでに大きな変化がなければ、日本の未来は暗雲立ち込め、もっと悲惨な状況が待ち受けているように思います。近い未来、今ある職業の40%は消えて無くなると言われています。Amazon(アマゾン)に潰された本屋、UBER(ウーバー)の出現により消えていったタクシー、やがて自動運転になりロボットタクシーになるでしょう。職業は「永遠に続く時代」から「寿命がある時代」へと変化しました。今後ますます変わりゆくスピードは速くなると思います。未来は勝手に来ています。走るコースも乗り物も大きく変わるでしょう。何が必要になり、何が不必要になるのか?どの職業がなくなり、何が職業となるのか?一つ一つ整理し、対応しなければなりません。日本の未来に憂いを感じているのは私だけでしょうか。現状を自覚し、発奮しなければ、この窮地を乗り越えることはできません。だから声を大にして言いたい。どこに向かい、何を目指すのか。ここで変わらず、いつ変わるのか。ここで動かず、いつ動くのか。ここで立ち上がらず、いつ立ち上がるのか。日本という国の未来を自分のことのように案じています。歳のせいかもしれませんね。
2018/01/01 -
2017.12.01
人生
あれこれ未来について深く考えてこなかった私ですが、最近よく残りの人生について考える機会があります。生きていると色々ありますが、病気を患い若くして亡くなった友人、会社が倒産し消息不明になった先輩など、そういう出来事に遭遇するたびに、我が身を振り返り、後何年元気に動けるのかなど考えてしまいます。これまでの55年の人生は楽しく愉快に過ごすことができ、自分なりに満足しています。人生の半分以上が過ぎた我々世代は、商売している人も会社勤めの人も最終着地点がそろそろ予測できる頃だと思います。しかし、どういう訳か、私の人生は全く未来や着地点が見えません。それどころか、まだ夢の入り口をウロウロしている気がしています。
6、7年前より、人生のテーマを「努力」から「楽しむ」に変え、全てのリミッターを外し、自由に生きるようになりました。大きな変化は「出会い」の変化でした。良き出会いは良き結果をもたらし、良き人生へと導いてくれました。多くの「出会い」により多くのビジネスパートナーと一緒にビジネスを始めました。私のビジネスパートナーとして最適な条件は行動力がある人です。何かを手に入れたいと思ったときに行動に移せるか、移せないかが重要です。ビジネスをするにあたり、能力をつけるとか、資格を取るなど、自分を有能にしていけば、ビジネスが上手くいくと思われがちですが、決してそんなものではありません。能力や経験は努力次第で積み上げることは可能ですが、行動力というポテンシャルは、思考を変えなければ身につきません。成功したビジネス、失敗したビジネス、色々と経験した結果、自分の頑張り次第で届く範囲もありますが、一方でどんなに頑張っても及ばない範囲もあることを理解しました。また、成功するビジネスというものは、宇宙の真理に背いた自分本位の欲望によって成そうとしても、滅多に成功するものではありません。自分の欲望から離れ、自分以外の何かのために励むことが成功に近いように思います。
その上で今年は人生最大の「出会い」がありました。その「出会い」は私をメキシコという国に導き、本腰を入れてメキシコでビジネスを取り組むきっかけを与えてくれました。メキシコは地球の反対側に位置し、飛行機で14時間かかり、麻薬の犯罪組織が蔓延り、治安も悪く、砂漠とサボテン、東洋人が居ない、このようにあまり馴染みがなく、決して良いイメージは無いと思います。「なぜメキシコ?」聞かれると「直感」としか言いようがありません。周囲から「やめといたら」という囁きが聞こえてきそうですが、私自身はワクワクドキドキ、思春期の頃に味わった感覚が蘇り「メキシコ大冒険の始まり始まり~」と、このような気分です。
幸せな人生とはどんな人生か、「辛いことや悲しいことが少なく、嬉しいことや楽しいことが多い人生」だと思います。人生は一度きりです。やりたいことをやり、生きたいように生きる。最近お気に入りの座右の銘は「意思あるところに道はある」です。経営者として人様の役に立てるようになりたい、日本人として日本の役に立てる人でありたい。そして、自分自身のベストはどこにあるのかをいつも探りながら、「年齢は関係無い、いくつからでも挑戦できる」「後悔のない生き方をする」。これらのことをモットーとして、残りの人生を歩みたいと思っています。そんな私の生き方に対し、理解をしてくれている家族や社員、多くのお客様に支えられている私はつくづく幸せ者ですね。
今年も一年お世話になりました。ありがとうございました。
2017/12/01