Column 社長コラム
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2021.07.01
夢に日付を
(株)明治からの紹介でワタミの弁当を販売するになりました。ワタミさんとの商談の時、十年以上前にワタミ創業者の渡邉美樹氏著書『夢に日付を!』(2005年,あさ出版)を読み、生き方を変えたことを思い出しました。その頃の私は、『夢に日付を!』を参考に、真面目にコツコツと努力することが立派な経営者への道だと考え、スケジュールを日々こなす毎日を送っていました。この日は毎月発行される経営書を読み知識を高める、この時間はセミナーへ行き未来必要な経営のノウハウを学ぶ、この時間は交流会に行き人脈を増やすなど。しかし、何も変わらない、あまり大きな成果も出ない日々が続いていました。そしてある日、いやいやスケジュールをこなしている自分に気づきました。スケジュールに夢実現の期日を書き、毎日それに向かって努力をする生き方は容易ではなく、生き方を変える決心をしました。大きく変えたキーワードは「努力」から「楽しむ」でした。無理して頑張らない。努力はしない。考えて行動するのではなく感じて行動する。夢の実現に必要かどうかより、自分が楽しいかどうかを重要視する。読まなければならない本は読まず、読みたいと思える本だけを読む。セミナーや交流会には行かず出会いは天に任せる。このように選択の基準を変えることにより、大きな変化が起こり始めました。楽しく付き合える多くの経営者と出会い、やがて彼らが仲間と呼べるような存在になり、新たなビジネスが始まり、仲間が新たな仲間を連れてくるようになりました。行動範囲が広がり、仕事の世界観が広がり「仕事が遊び、遊びが仕事、人生をかけてやる遊びが仕事」。「努力」から「楽しむ」へ、選択の基準を変えることで、楽しくて仕方がない日々を実感できました。
それから十年が経ち、あれだけ楽しかった新規事業への思いも、夢を見ることはできても、ほとんど存続できず、成功には至りませんでした。事業資金が底をつくと、仲間だと思っていた者たちも、散り散りばらばらになりました。最近は仕事への思いも自分が楽しいだけではダメ、「利己」より「利他」が大事だと思うようになりました。新規事業を立ち上げる思いも、自分が楽しいと思えるかより、どれだけ社員がやりがいを持てるのか、そして、その地域の人や、その地域にどう貢献できるのかが最も重要なことなのだと気づきました。そんな在り方の変化の中、もう一度『夢に日付を!』読み返すことにしました。すると過去、渡邉氏のように努力する生き方はできないと思っていた自分が、嘘のように本の内容がすっと心に染み込みました。年齢を重ね、在り方(選択の基準)が変化したのかもしれません。この本を改めて読み、事業が上手くいかない理由が理解できました。夢を実現するために最も足りていないことは、「もっと深く夢をイメージすること」だと気づきました。現に最初に起業した牛乳宅配事業に対する思いは、未だ燃え続けています。周りを見渡すと、私が使っている机も、パソコンも、外には外に目をやると自動車や飛行機も、誰かがイメージしたものです。この世に誰もイメージしなかったものは存在しません。もう一つ、足りていなかったことは「夢を持ち続けること」「夢をあきらめないこと」だと思います。そして、そのために必要なことは「夢に本気になる」ことだと、改めて心に落とすことができました。
私の起業の動機は「金持ちになりたい」でした。今は自分のことより、社員と共に幸せになる、お客さんに喜んでもらう、などの思いが強くなってきました。社員やお客さんのことを真っ先に思えるようになったのも、元をたどれば「金持ちになりたい」という夢を持ったから起こったことです。夢も成長し変化するのですね。自分の欲で始めた事業であっても目標に向かって突き進めるならそれでよし、人生の目的は、「夢の実現よりも夢に向かうプロセスの中で人間性を高めること」なのかもしれません。人はつい、学歴・業績・お金をどれくらい持っているか、などを他人と比較してしまいます。そもそも、人は生まれた環境も、持っている才能も違うのに、「ヨーイどん」で同じ競争ができるわけはありません。一生懸命頑張っても、なかなか社会から評価を得られないこともあります。だからと言って自信をなくす必要はありません。あくまでそれは人生の途中経過です。自分の人生で大事なのは、自分の成長であって、他の人と比べることに、何の意味もありません。人生は他人との競争ではなく、あくまでも、自分自身とのレース。着実に歩いていけば夢は成長していきます。比べるのは「昨日の自分」。
2021/07/01 -
2021.06.01
田中邦衛
先日、田中邦衛さんが亡くなりました。昭和の名優がまた1人この世を去り、寂しい限りです。1932年11月生まれ・88歳没。一九九五年俳優座養成所入所し、1961年「若大将シリーズ」を皮切りに「網走番外地シリーズ」、1973年俳優座退所後「仁義なき戦いシリーズ」1981年「北の国から」1983年「居酒屋兆治」など数々の映画やテレビドラマに出演し人気を博していました。中でも、映画・「若大将シリーズ」での青大将役、「北の国から」での黒板五郎役を演じ、国民的俳優になりました。1960年代半ばから共演を重ねた高倉健を尊敬していて、1985年の「夜叉」で高倉健に加えて、ビートたけしも共演したことから、高倉健に漫才の稽古をしようと誘われたエピソードがあったようです。その個性的な風貌から、いくつかの漫画のキャラクターのモデルになっています。尾田栄一郎著「ONE PIECE」では、主人公の海賊ルフィを追う海軍本部の海軍大将「黄猿・ボルサリーノ」が、「仁義なき戦い」の田中邦衛をモデルにしています。ブルーリボン賞助演男優賞「逃がれの街」「居酒屋兆治」・日本アカデミー賞最優秀助演男優賞「学校」「子連れ狼・その手の先に」・1999年には紫綬褒章・2006年旭日小綬章と数々の賞も受賞されています。
随分昔になりますが「北の国から」の最終回で田中邦衛演じる五郎が2人の子供(純と蛍)に遺言を残します。そのシーンを観て、自分の中にある何かが芽生え、PTA活動を始めるきっかけとなりました。そのセリフは『人として親としてお前たちに伝えるべきことがある。財産や資産は残してやれない。金なんか望むな、幸せだけを見ろ。そして、つつましく生きろ。それが、父さんからお前たちへの遺言だ』。この言葉は私の親としての責任を思い起こさせました。「子供たちがまだ判断力のない、子供の時代に子供たちに伝えるべきことを伝えなければならない」と思いました。それまで、私が思う父親の役割は仕事をして稼ぎ、子供たちの選択肢を広げてあげることだと、それ以外は母親の役目だと思っていました。しかし、五郎の言葉を聞き、父親として、子供たちに沢山の教えるべきこと、伝えるべきことがあるはずなのに話していないことに気づかされました。「礼儀や挨拶の大切さ」「親や祖父母を大事に想う心」「人としての考え方や生き方」など。子供たちのことや地域のことをもっと知りたい、そんな思いでPTA活動を始めました。
それから、10年間もPTA活動をすることになりました。このPTA活動を通して感じたことは、親が見ている以上に、子供たちは親のことを汚れのない目で見ているということでした。だからこそ、子供たちに、恥じるような生き方はできない、と当時思いました。PTA活動は「キャンドルサービス」のようなもので、自分の子供ではない子供たちに「愛情」「幸せ」を分けても決して自分の火は小さくなったり、消えたりはしません。それどころか逆に分け与えた周りの火によって自分自身の「愛情」「幸せ」を感じて温かい気持ちになれたように思いました。今思えば、子供たちのために行った、校区の防犯チェック、朝の挨拶運動、運動会でのタバコ注意、など良き思い出です。しかし、地域はいろいろな方々の集合体です。PTA会長としての発信は受け取られ方も多種多様です。挨拶をしない子供たちに大きな声での挨拶を強要したら、知らない人に声をかけられても無視しなさいと親に教えられていたり、運動会で喫煙場所ではない所で吸っている父兄に注意したら、逆に文句を言われて、意地になって注意してしまったりと、良かれと思ってとった行動も後味悪かったりで、会社経営よりも、PTA活動の方がよっぽど難しいと当時は感じました。また、冗談のような話ですが、PTA会長は地域の顔で、良きにつけ悪しきにつけ地域のお母さん方から見られています。ある日の昼食時、時間がなかったので近所の吉野家ヘ行き、急いで食事を済ませると、それを見ていたPTAのお母さんが「会長は毎日吉野家で牛丼食べている。会社が危ないからで、もうすぐ潰れるらしい」と噂されたり、コンビニの本のコーナーでパラパラと雑誌を物色していると「会長がコンビニでエロ本立ち読みしとった」と。コンビニにエロ本無いし、と思いながら、当時噂を弁解したことを覚えています。
子供たちのために行ったPTA活動を終えて、6年が経ちました。3人の子供たちも、今年26歳・23歳・18歳と、それぞれ成長し物事の判断がつく年齢になりました。しかし、今はコロナ禍、通常の時とは違います。今この時(特に長男・次男)に伝えるべきことがあるとしたら、これからを生き抜くのに必要なものは、「先見性」「リーダーシップ」だと思います。「先見性」=これからは情報の差が収入の差と成ります。大事なことは生き抜くためにリスクをとる必要があり、そのリスクは情報によってカバーが必要です。そして、最も必要な情報源は時代の先頭を走る人だと思います。「リーダーシップ」=これからの時代に最も必要なことは戦う覚悟を持つこと。そして、イノベーション(革新)、差別化、グローバルが大きく起こり、未来は企業が国を選ぶ時代になるということ。コロナ以降の新たな時代を生き抜いて欲しいと願います。
2021/06/01 -
2021.05.01
ROLAND
テレビでホスト界の帝王・ROLAND(ローランド)と林 修先生の対談番組を観ました。歯切れ良い言葉、風貌とは反した真面目な語り口からROLANDに興味が湧き、あれこれ調べてみました。1992年7月27日東京生まれ、父親はミュージシャン、双子の妹と弟がいる。自覚はないが小さい頃から変わったこどもだと周囲に言われた。サッカー選手を目指して青春のすべてを捧げたが夢叶わず、なんとなく進学した大学を入学早々に辞める。なぜか頭の片隅にずっとあったホストの世界に入る。どうせやるからには、帝王と呼ばれる伝説のホストになると心に誓った。下積みも経験したが、最近は押しも押されもせぬホスト界の帝王として、テレビや雑誌などに日々取り上げられるようになった。まだ弱冠28歳。ROLANDを調べているうちに、なぜ今脚光を浴びているのかが紐解かれました。その大きな理由は、圧倒的にインパクトのある言葉だと思います。メディアで発信した言葉達は「ROLAND名言」として、世間で話題となり、多くの方々から言葉の真意やどう生まれたのかの問い合わせが殺到したようです。今回、ROLANDの名言を読み、心が動いたものを紹介したいと思います。
まず一番有名な名言は「世の中には二種類の男しかいない 俺か俺以外か」この名言は幼少期から自分は特別な人間だと感じていて、どこにも属さない、属したくないと心から願う子どもだった。もはや、クラスに分けられることすらも抵抗を感じていたことを覚えている。だからこのセリフは幼少期から使っていた。そして、大人になって気づいたことがある。歴史的に何かを成し遂げるためには、ある程度エゴイスティックになる必要があるし、自分は特別であると信じる必要があるように思う。要は「素敵な勘違い」ですね。きつくても、辛くても、どんな犠牲を払ってでも、唯一無二の「俺」でいたい。
次に、「全力で向き合ったからこそ、全力で諦められた」俺には夢を諦めた過去がある。10年以上追い続けていたサッカー選手という夢を、俺は自らの意思で諦めたのだ。東京都大会の決勝で我々帝京高校は敗れ、引退が決まった。その時に湧き上がってきた感情を、俺は未だ鮮明に覚えている。敗れた悔しさはもちろん、「やっと終わったな、やっとサッカーから離れられる」と、安堵と開放感に似た感情も湧き上がってきたのだ。不思議とまったく未練を感じなかった。あの清々しい感情は、後にも先にもこの日だけだ。今考えると、全力で取り組み、全力で向き合い、自分で考えうる限り最大限の努力をした結果だからこその感情だったのだろう。もし、適当な気持ちで夢に向き合っていたら、何気なく努力していたら、今でも中途半端に、夢とも言えない夢を追いかけ続けていたかもしれない。夢は叶わなかった。けれども、あの時過ごした10数年は、俺に夢や目標に全力で向き合うことの大切さを教えてくれた。
そして「金で買えないものの価値は、金で買えるたいていの物を手にして初めてわかる」お金より大切なものは、たくさんあると思っている。人生、お金がすべてではない。それに気づいたのは、皮肉にもお金を手にしてからだ。よく聞く「お金よりも大事なものがある」というセリフ。そのセリフを口にする人の大半は、お金を持てないことへの開き直りだったりするのではないか。努力不足の自分を正当化するために、そう自分に言い聞かせているのだ。大金を手にしたこともないのに、金のある生活の中身なんてわかるはずがないんだ。観てない映画のレビューを書こうと思っても、書けないのと同じ。それを、実際にお金を持つことで気づけたのだ。金とは、決してなにかを買うためだけにあるのではない。金で買えないものの本当の素晴らしさに気づくために、金というものが存在しているのだ。今はそう思っている。
ROLANDの名言はいかがでしたか。何かを目指し生きると、うまくいかなかった時の挫折や試練、うまくいった時の達成感や充実感など、その場面、その場面でいろいろな感情が湧き上がります。うまくいった時ではなく、うまくいかなかった時にこそ、読んでほしい名言だと思います。ROLANDの生き方は恐ろしいほど前向きで、傲慢なほど自分中心だと思います。しかし、前向きに全てを受け止めて全力で生きているように思います。WITHコロナとなり、1年が過ぎようとしています。少し緊張感が緩み、惰性で生きてしまっているように思います。ROLANDを見習い、コロナにより余儀なく変化した、生き方改革、働き方改革、ビジネスモデル改革など、多くの、遂行しなければならない改革に全身全霊をかけて取り組みたいと思います。ROLANDの言う「素敵な勘違い」をしながら、さらに次のステージへ挑戦したいと思います。
2021/05/01 -
2021.04.01
辞める人、辞めない人
先日、仲良しのY若手経営者から手塩にかけて育てた社員が退職して、とても残念だと言う話を聞きました。彼の会社はSNS広告を販売している会社です。起業から7年、業績も毎年順調に伸ばし、社員数も27人に増えました。退職した社員は学歴も申し分なく、頭も良かったのですが、企業営業には向いていなかったので、Y氏はその社員のために独自の部署を作り、Y氏が直接指導していました。その社員からY氏に直接、「退職したい」と携帯に電話がかかってきました。起業からの7年、退職した社員は一人もいなかったとのことです。「電話口で泣いていた」と聞き、辞める社員にも相当な理由があるのかと思ったら、実は泣いていたのはY氏だったと。退職理由を聞くと、自己都合だと言い、必死で引き止めたが、すでに再就職先は決まっていて、引き止めることもできなかったようです。思わず、悔しくて、情けなくて、涙がこぼれ落ち、気が付いたら電話越しにわんわん泣いていたそうです。経営者としての辛い経験や試練は、経営者としての深みを増やしてくれることになります。この出来事を糧に成長してほしいものです。
私自身、社員が辞める辛い経験を数多く味わってきました。大昔、何度か引き止めた記憶がありますが、今は引き止めることはありません。また、一度辞めたいと言ってきた者は、だいたい辞めていくように思います。今まで何人もの社員が退職しましたが、誰しも急に退職したいと思うのではなく、それに至るまでにプロセスがあり退職を決意します。組織が大きくなると、二人だけの関係性ではうまく人間関係が築けていても、第三者が加わるだけで、簡単にその関係性が崩れてしまう場合も多々あります。私の場合、退社は相手の問題とし、理由はあまり考えません。どんなに退社理由を取り繕っても、社員には社員の人生があり、私には私の人生(目の前の仕事)があります。その都度前向きに受け入れて、今後に活かすことが大事なことなのかもしれません。大事なのは「立つ鳥跡を濁さず」という言葉があるように、辞め方には人としての美学が出ます。また、辞め方によっては、その後の人生もうかがい知れるので残念だと感じてしまうこともあります。
成長とは変化することです。小さな青虫が大きな青虫になることは、成長と言えません。なぜかというと、能力に大差がないからです。サナギに変化し、蝶になり、羽を広げることによって空を飛べるようになる。それが成長です。大事なのは、自分自身が変化するかどうかです。仕事も同じです。変化には勇気が必要です。なぜなら、一旦「蝶」に変化してしまったら、もう「青虫」には戻れないからです。成長するためには、昨日までの自分を捨てなければなりません。そうでなければ新しい自分に生まれ変わることはできません。人は変化することを嫌がります。自分を否定することが怖くて、自分を肯定しつつ成長できないものかと、もがいています。
世の中は変化しました。昨日まで正しかったことが、今日も正しいとは言い切れません。ついこの間まで「必要な人材」と言われていた人が「不必要な人材」に変わってしまう。これは世の中が変化してしまったからです。かのダーウィンも名言しています。生き残ったのは「強い種」ではない。「優秀な種」でもない。「変化した種」だけが生き残ったのだと。
私が考える、いくつかある「良い人材」の条件を挙げてみます。元気で明るい・真面目にコツコツ・営業が上手・頑固一徹で必死に頑張る・仕事が早いなどたくさんあります。これらの中で私の思う良い人材の筆頭は、「辞めない人」だと思います。どこへ行こうが、何をしようが、その社員の人生は大差ありません。理由はあれこれあると思いますが、今、目の前にあることを一生懸命にやらずして明るい未来はありません。自分の周りにいる人を悲しませて良いことは一つもないような気がします。私の成功ルールに「今、目の前にあることを一生懸命」「今、周りにいる人に喜んでもらう」というのがあります。どれだけ社員が成長するかは、どれだけ時間をその社員にかけるか、だと思います。新卒雇用をしている時、入社から半年間は社長懇親会と称し食事をしながら新卒と時間を共にしました。営業のできない新卒に対して私の役目は「信じること」「励ますこと」でした。あの時の新卒たちの嬉しそうな顔、楽しそうな顔、そして、辛そうな顔、涙した顔は、今でも私の宝物です。
参考文献 安田 佳生『採用の超プロが教えるできる人できない人 』サンマーク文庫,2006年
2021/04/01 -
2021.03.01
シニアクラブ総会挨拶
昨年12月の尼崎青年会議所現役・卒業例会での会長挨拶で、やたら緊張し真っ白になってしまい挨拶が一言も出てこない場面がありました。多くの後輩たちの前で、情けない姿を見せてしまい反省しきりです。あの後、医者に症状の相談をしたら「パニック障害の症状に似ていますね」との返答でした。「どんな時にでる症状ですか」と尋ねると、「生活習慣が大きく変化したり、大きな緊張やプレッシャーを感じた時に発症します」とのことでした。しかし、あの後、何度か他の団体で挨拶をする機会がありましたが、全く緊張感もせずスピーチがスラスラと出てきました。わかったことは、このシニアクラブの会長という役職は別格だということ。そして。この会長挨拶でしか、この症状はでないということです。この尼崎青年会議所シニアクラブ会長という役職は本当に重たいと身にしみて感じます。思えば歴代会長はこんな重責に耐えながら、素晴らしい挨拶をしていたのだと思うと、改めて頭の下がる思いです。故・竹瀬元紀歴代会長に言われた「挨拶は三ヶ月前からその日のために考えておけ。来るべき挨拶の日まで片時も忘れてはならん。挨拶は準備に尽きる」この言葉が胸に蘇りました。講演活動を生業にしているプロのセミナー家にスピーチの極意を尋ねると、「5分ぐらいのショートスピーチは原稿を作成して丸覚えします」とのこと。丸覚えの方法は20回原稿を見ながら声を出して読む、その後、10回原稿を見ずに声を出して話してみる、とのことです。今回は30回やってきましたよ(笑)還暦を迎えようとしている私が、まだこのような試練を与えていただいていることに、心から感謝したいと思います。そして、どんな場所でも、どんな状況でも、しっかりと挨拶ができ、皆さんから誇りに思っていただけるような会長になれるように精進したいと思います。
さて、コロナになり1年以上が過ぎようとしています。この1年間、いろんなことを考えました。この先、右へ行けばいいのか、左へ行けばいいのか?コロナは人生の大きな分岐点のような気がします。皆さんに質問したいのですが、大勢の人が右へ行こうとしています。皆さんは右、左、どちらの道を進みますか?右へ行く人が多いなら自分も右へ行くと言う人、もしくは、多くの人が右へ行くなら、自分はあえて左へ行くと言う人。それぞれの意見があると思います。残念ながらこの2つの答えは同じです。進む方向は違えど、選択の基準が自分以外の人で決めているからです。この答え以外に、もう一つ答えがあります。それは、自分以外の人が、どちらの道を選ぼうが、その方向へ行く人が大勢いたとしても、自分の基準で選ぶという答えです。自分の基準で選ぶことができる人は「自分の中に確固たる軸」があります。自分の中にある確固たる軸、それを「在り方」と言います。コロナ禍である今は混迷の時代だと言えますが、一寸先を読むことが難しい荒波の中で周りの人がどう進むかを頼りに人生を決めるのは危険だと思います。こんな時、何よりも頼りにしなければならないのは、自分の意思であり、自分自身の基準、つまり「在り方」だと思います。人は2種類に分類されます。「自分の人生に誇りを持って生きている人」もう一つは「自分の人生を満足できずに生きている人」です。この違いは自分の「在り方」を持っているか、いないかだと思います。「在り方」には色々な定義があります。「心の姿勢」「自分のルール」「自分との約束」「自分のスタンス」など。全ての定義に当てはまるのは、ここで曲げたら自分を嫌いになるということです。混同されがちですが、「生き方」と「在り方」は違います。「生き方」は人生の選択、「在り方」は選択の基準。とは言っても私自身、何となくの「在り方」はありますが、確固たるものまでは至っていません。だからよく迷いますし、確固たる「在り方」を身に付けたいと考えています。そして、そのために最も必要なものは「答え」ではなく、「問い」ではないかと思います。「在り方」は歩んできた人生によって、これから歩んでいく人生によって、違うように思います。「どんな自分になりたいのか」「どんな生き方をしたいのか」答えは全て自分の中にあります。コロナの混迷の時代だからこそ、揺るがない「在り方」が必要だと思います。
皆さんも自分自身に「どんな自分になりたいのか」「どんな生き方をしたいのか」問うてみることをお勧めします。きっと、揺るがない「在り方」を導きだせると思います。私がコロナ禍で一番、自問自答したのは「尼崎シニアクラブはどうあるべきか」「会長として自分はどうあるべきか」でした。
2021/03/01 -
2021.02.01
年男
今月は尼崎北ロータリークラブ年男スピーチで話した内容をコラムに書かせていただきます。
「新年明けましておめでとうございます。腰は低いが、頭(ず)が高い、増富でございます(笑)。本年もよろしく御願いいたします。年男スピーチということで、過去を振り返ってみました。2002年、名誉ある尼北ロータリークラブに入会させていただきました。今年で19年目となります。当時の私は、2001年度、尼崎青年会議所の理事長を務め卒業、2002年度は直前理事長という立場で青年会議所に関わっていました。青年会議所活動中に様々な場面で自分自身の力の無さを痛感することが多く、ただ優しいだけの男ではダメ、もっと強くなりたい、誰にも負けない力が欲しい、そんな思いで満ち溢れていました。そんな『絶対的な力』を得るための一番の近道は事業規模の拡大だと。事業規模拡大ができたら、社長としての器を広げることができるし、お金も稼ぐことができるようになります。『命懸けの事業拡大』こそが『絶対的な力』につながると信じ、これを四十代のテーマと定め、動こうと考えていました。そんな矢先に先輩方から誘われロータリークラブ入会となりました。皆さんは大きなテーマがあるなら入会しなければいいと思われると思いますが、青年会議所の先輩・後輩の関係性は自分の都合が通用するような生易しい関係性ではありません。色々と葛藤はありましたが、表向きには『喜んで入会させていただきます』と言って入会することになりました。しかし、ロータリーに入会はしましたが、『命懸けの事業拡大』というテーマがぶれることはありませんでした。
当時、兵庫に四店舗しかなかった店舗網を大阪・奈良などの関西、徳島・香川・高知・愛媛などの四国、四十代後半は群馬・栃木・茨城・千葉などの関東に店舗を広げるために走り回っていました。事業拡大中心の生活はロータリークラブへの出席もままならない状況でした。出席できない負い目の中、参加すると長老たちが決まって『どちらさんでしたっけ?』と温かくいじっていただきました。いつしかロータリーへの出席は私にとっての癒しの場であり、オアシスのような場となっていきました。入会からの18年はメンバーの寛容さに救われた日々であったように思います。今、思うことは『尼北ロータリークラブでよかった』心からこのように思います。
さて、年男スピーチですね。『論語』にある孔子の人生訓とも言える一節があります。『吾、十有五にして学問を志し、三十にして立つ(独立)、四十にして惑わず(迷いが消える)、五十にして天命を知る(人生の目的)、六十にして耳順う(人の話に耳をかたむける)、七十にして心欲する所に従えども、のりをこえず(人の道をはずれることなく自由に行動できる)』孔子の人生訓は多くの人たちの道しるべとなっていますが、私の人生には全く当てはまりませんでした。私の人生では、孔子の節目、節目の人生訓を理解しながらも、先にチャレンジしてしまう、先に動いてしまう、そんな人生だったように思います。五十代は本業の宅配牛乳事業だけにとどまらず、面白そうだとみるとすぐに新規事業に投資をし、幾つもの事業に失敗しました。しかし最近は、この多くの失敗を誇りに思えるようになりました。なぜかというと、この多くの失敗こそがチャレンジした証だからです。還暦である六十は、孔子の人生訓では耳順うとありますが、人の話に耳をかたむける前に、自分の好きなこと、やりたいことにチャレンジしていると思います。自分の性分を変えることは難しいですね。
還暦という言葉は、一般的には定年や終活的な意味合いの年齢だと思いますが、私自身はまだ自分の人生に全く納得できません。まだまだ、こんなもんじゃ終われないと思ってしまいます。私自身が思い描いていた人生の入口あたりをまだウロウロしていると考えているからだと思います。二十年近くも必死で頑張ってこの程度なんだと、今の現実を恥ずかしく思っています。四十歳の時に『絶対的な力』を得たくて、全力で全国を走り回っていましたが、数年前から人生のテーマが少しずつですが変わってきたように思います。今は『周りにいる人に力を与えられる存在になる』です。自分だけが幸せになるのではなく、周りにいる人(家族、社員、友人)とともに幸せになりたいと考えるようになりました。その方が楽しいですもんね。まだまだ、チャレンジしたいこと、勉強したいこと、行ってみたい場所、食べに行きたい店など、やりたいことが沢山あります。やりたいリストがどんどん増えています。これからはテーマを『命懸けの事業拡大』から『周りにいる人と共に幸せになる』に変えて、『辛いこと・苦しいこと』が少なく、『楽しいこと・嬉しいこと』が多い人生を歩めたらいいなぁー、とこっそり考えています。これからも寛容の心で見守っていただきますよう御願い致します。」
2021/02/01 -
2021.01.01
半沢直樹②
2020年はコロナ感染症の影響で人々のライフスタイルを大きく変える1年となりました。2020日経トレンディのヒット商品を見ると、コロナで制限された生活を豊かにするヒット商品がいくつも登場しました。上位商品は1.鬼滅の刃 2.マスク消費 3.どうぶつの森 4.Zoom 5.檸檬堂など。上位にランクインしている商品は、ほぼコロナによる生活の変化がヒットの要因になっています。私もコロナにより、コロナ以前と大きく習慣が変わりました。1番の変化はテレビ、パソコン、携帯電話の使用が以前より格段に増えました。仕事は朝から一日中、パソコンとテレビをつなぎZoomでミーティング。過去は本からの情報収集が多かったのですが、今はiPadやiPhoneでYouTubeを観て情報収集することが多くなりました。また、ステイホーム(私の場合はステイ社長室ですが)により、テレビドラマやNetflixから韓流ドラマ、ハリウッド映画などを観る機会も増えました。私自身の2020ナンバーワンヒットはテレビドラマ「半沢直樹」でした。
ドラマ「半沢直樹」は、TBSテレビのドル箱枠「日曜劇場」から生まれた数あるヒット作の中でも、突出したコンテンツです。2013年放送の前作は、最終回40%越えの視聴率を叩き出し、社会現象にまで発展しました。平成歴代1位のドラマとも称されています。前作に引き続き大ヒットとなり、世帯平均視聴率は全話を通して22%を上回り、最終回で32.7%を記録しました。2013度版の最終回の42.2%を超えることはできませんでしたが、平成以降のドラマで30%を超えるのは、2013年度版以来の快挙となりました。ドラマの舞台は大手銀行。巨大な組織の中、登場人物のぶつかり合い、言い換えれば人間が”生きている様”や”生きている力”を描いているドラマです。多少大げさに感じるぶつかり合いも、このドラマの魅力だと思います。主人公・半沢直樹という男は味方にしたらこんなに心強い男はいないと思います。また、頭でっかちな理論だけじゃなくて、ちゃんと足も使って行動するところもよいですし、正論だけでなく、時にはギリギリアウトな線にも行きつつ、ダメだったらきちんと責任を取る、そんなところが半沢の気持ちよさだと思います。また、不屈の闘争心で悪役ライバルをやっつけていく爽快感がたまりません。絶対やりぬく男、絶対負けない男、それが半沢直樹です。
昨年はコロナの影響で、仕事を始めとする多くの場面でやらない決断、動かない決断を数多くすることになり、閉塞感漂う1年となりました。しかし、私はコロナの影響をあまり受けることなく、コロナによって変わるべき点、変わってはならない点を判断した上で、コロナ後を見据えて行動することができたように思います。それは、1995年に起こった阪神淡路大震災の経験によるところが大きかったように思います。大震災は、お客さんの家を揺らし、崩し、私の仕事の全てを奪いました。どれぐらいの間仕事ができないのか、どれぐらいのお客さんが戻って来ていただけるのかなど、先のことを考えると、真っ暗になり、途方にくれたことを鮮明に覚えています。大震災から約1週間、救援物資の配達以来の仕事がきました。その数、40000個/毎日、それまでの配達客数が3000軒でした。途方に暮れていた私の心を奮い立たせました。10倍以上の配達量ということは、単純に計算しても配達車両も10倍、配達員も10倍必要です。自宅待機の社員に連絡したり、知人に配達依頼の連絡したり、車両調達に走り回ったり、大忙しとなりました。救援物資の配達先は、自宅が全壊して住むことのできない方々が避難している小学校の体育館、地域の公民館などが主な配達先でした。急遽揃えた車両、急遽集めた配達員の配達作業はアクシデントの連続でした。車両が故障したり、急遽配達員が仕事に来なかったりと。中でも一番きつかったのは避難場所での心の荒んだ被災者との争いでした。3000人が避難している小学校に着くと、3000個の牛乳を事務所まで持って行くまでに奪い合いになり、いつも揉めていた記憶があります。わずか2ヶ月の救援物資の配達でしたが、大きな利益をもたらしました。その利益を元に比較的に震災被害の少なかった神戸市北区で営業を再開しました。そこでも、店舗に住み込みながら陣頭指揮をとり、営業人員の大量雇用に奔走し、新規客の配達員を雇用し、救援物資の利益の全てを注ぎ込み、お客さんの獲得に全てをかけました。おかげで、その年の暮れには、元どおりの3000軒のお客さんができ上がりました。
阪神淡路大震災は私に「絶対に負けない心」を授けていただきました。苦しいことがあると、いつも「あの時やりきったじゃないか」「あの時諦めなかったじゃないか」と、あの時を思い出します。誰もよくやったと言ってくれなくても、やりきった自分を自分が信じられるようになるんです。誰も褒めてくれなくても、自分で自分のことを誇れるようになるんです。震災の経験は私の人生の宝物となり人生の格言ができました。「幸せは不幸せのふりしてやってくる」半沢直樹はあの時のことを思い出させる熱量あるテレビドラマでした。まだまだ、コロナ感染症の余波は続きますが、みなさん頑張りましょうね。
2021/01/01 -
2020.12.01
本田健③
先月号の続きです。本田健氏の提言などを参考にして、コロナ禍にやるべきことを3つ決めて実行しました。先月号の①固定費・人件費を大幅削減して身軽になっておくに続いて、
②借りられるだけお金は借りておく
付き合いのある銀行に借り入れを申し込むと、ほぼ前向きに貸してくれました。日頃の何倍もの銀行と借り入れの話をすることで、銀行と話をする基本が身についたように思います。最初に「数字」、特に売り上げ、人件費、粗利益などの実績を報告します。次に現況と今後の事業計画、トピックス、他行の融資状況などを報告します。最後に「良いことも悪いことも報告する」のが原則ですが、「悪いことは先に、良いことは後に話す」ようにします。実は逆になりがちですが、最後に聞いた話の方が印象に残りやすいので、基本は悪い話を先に話すように心がけています。結果、どの銀行もコロナ支援という時期もあって好意的に貸付が決まり、気がつくと通常の借入額の2倍の借入額となっていました。返済期間も通常の五年から十年に伸ばし、三年間の元金返済猶予もあり、三年は借り入れをしなくても良い状況となりました。コロナ以前は常に借り入れを考えながら経営をしていましたが、資金の余裕ができると長期的に経営を考えることができ、同時に借り入れに対する考え方も変わりました。借り入れは悪でなるべく借りない、金利はなるべく安く、返済は短期にと思い込んでいました。しかし、今回の借り入れで私の中のリミッターが外れると同時に、パラダイムの変換も起き、金利が少々高くても返済期間は長く、借りられるだけ借りる資金繰りを学びました。キャッシュは会社の生命線ですが、必要以上にお金を貯めておくのは意味がありません。大事なお金だからこそ「貯める」のではなく「回す」ことが正解だと考えるようになりました。私はその資金を有形資産(不動産・海外投資・金融投資・新規事業・M&A資金)に分散投資をして運用したいと考えています。
③デジタル化へ大きく舵を切る
デジタル化を進めていくこと、それはどういうことなのかを考えてみました。自社の顧客管理ソフトをアップデートさせて効率を上げ、情報を活用する・自社の販売手法をデジタル化する・自社でECサイトやソフトを開発できるようになる・他社の要望に応じたソフトを開発する等、一言でデジタル化といっても多種多様な方向性があり、何から手をつければいいのか思い悩みました。結局は一歩ずつということで、社内にデジタルチームをつくり、プロからWebサイトやECサイトの作り方を教えてもらうことに。次に、自社ECサイトから商品を販売してみて、そのサイトを育てる。考えてみると、このデジタル化社会に、今からデジタル化をスタートして、デジタル企業のようになるのは、夢のまた夢のような話だと思います。では、どうしたらいいのか。自社でデジタル化を構築できないのなら、デジタル企業を買収、もしくはデジタル企業と手を組む、なども考えましたが、予算面・時間面で遠すぎるように思います。これでは先行しているデジタル企業には追いつけないのは必然です。他に良い方法はないのかを、あれこれ考えていると、嘘のような話ですが発展途上の海外デジタル企業への投資の話が舞い込んできました。その会社へ投資をしてリターンを得ると言うのは当たり前の話ですが、その会社が開発したソフトやアプリを自社で活用する・自社で必要なソフトの製作を依頼する・その企業の開発したソフトを日本企業向けに翻訳や微調整をして販売する等、考えています。また、未来は日本企業の依頼に応じたWebサイトやソフト開発の窓口となるなど、いろいろ構想が膨らみ考えているだけでワクワクしてきました。デジタル化をきっかけにデジタル企業になる。そんな目標があっても楽しいんじゃないのかと思います。
コロナ緊急事態宣言から半年以上が過ぎました。5月中旬、緊急事態宣言は解除されましたが、自粛活動は経済に大きな打撃を与えました。現在は政府の助成金・補助金、銀行のコロナ対策支援貸付により、多くの企業は資金も潤沢だと思います。日経平均株価もなぜか高いですが(十月十一日現在)、アメリカの大統領選挙が終わるとどうなるかわかりません。経済の実態はリーマンショック以上の大不況になると経済の専門家は口々に言います。私の生活も出張中心の生活から、リモートミーティング中心の生活となりました。この生活はいくらでも仕事ができ、時間的な効率・経費的な効率ひいては経営効率を著しく良くしました。もう元へは戻れません。「仕事は人生をかけてやる遊び」この言葉通り毎日夢中で遊んでおりますが、リモートとなり効率が上がり、ついついやりすぎてしまうので、少しゆっくりとしたペースにしなければと考えています。その理由は私の問題ではなく、私の周りにいるスタッフがもたないからです。社長のパワーやエネルギーは周りにいるスタッフとは比較にならないぐらい強いことが、今回のコロナを通してわかりました。何事もほどほどに、周りにいる人への気遣いを忘れず、楽しく遊びたいと思います。
2020/12/01 -
2020.11.01
本田健②
先月に引き続き、本田健氏の提言を書かせていただきます。世界が大きく変わる時に、全てを変える覚悟を決める必要があります。なぜなら、これからは感染症と経済(仕事とお金)という二つの問題が必ず付きまとうからです。コロナ禍で私たちができることはあまりないと思われがちですが、とにかく変わろうと思うことは誰でもできます。外食、コンサート、海外旅行、など普通だったことができなくなりました。それによって、今まで普通にやってきたことが通用しなくなります。今、全ての仕組みが変わろうとしています。過去に例を取るなら、日本の忌まわしい戦争時代と同じぐらいの超激動時代が、これから起こる可能性があります。今までの常識を全て捨てて考えるぐらいのことをしないと対応できません。決断とは「決める」に意識がいきがちですが、「断つ」が重要で、覚悟を決めること、即ち「断つ」ことを意識しましょう。断つこと、変わることが難しいと言っている人は変化にのまれます。今、何かをやらないと破綻は目に見えています。あたかも消滅していないように振舞っていますが、まさに今、多くの仕事が消滅しています。飲食店の2、3割は閉店し、今まで賑わっていた京都のおみやげ屋さんは、外国人客が来ないのが当たり前となります。大きな仕組みの変化を、この数ヶ月で実感すると思います。もう一つコロナは他人事ではありません。自分が感染したらどうする?仕事が半年できなかったらどうする?など、アリとキリギリスの話のようですが、今まだ大変じゃない時に、お金を借りたり、新しいビジネスを考えたりしておかなければなりません。「コロナは大丈夫、何とかなるから」と言っている人は、何とかならない時に困ります。どんなシナリオがきても大丈夫なように準備しておく必要があります。
本田健氏の提言などを参考にして、コロナ禍にやるべきことを3つ決めて実行しました。
①固定費・人件費を大幅削減して身軽になっておく
②借りられるだけお金を借りておく
③デジタル化へ大きく舵を切る
①会議がリモートになったことで、必然的に全社員の旅費・交通費が削減でき、東京や海外の事務所を解約し固定費を下げました。人件費は削減ではなく、費用対効果を上げる手法をとりました。当社の店舗網は広域多店舗展開と全国に広がっているので、エリアの責任者の手腕が大きく経営に関わります。また余剰な人員がいるわけでもないので費用対効果を上げようとすると、エリア責任者と地域の社員・配達員の人間関係が改革の邪魔をするのが常でした。しかし、今回ばかりは変わらなければ、会社ごと消えて無くなるという危機感から、私が改革の中心になり、強い意志を持ち進めることになりました。まず、社員は役割分担を明確にしました。営業は営業だけ、配達は配達だけ、事務は店長職を兼ねていただき、今までの店長の仕事を無くしました。事務員以外の社員役割は営業か配達とし、それぞれの役割に対して営業数値をポイント制にして競い合い、社員のポイント順位を明確にしました。順位の低い社員には研修を課して、成長を促しました。人は変化を嫌いますが、社長である私自身が組織のど真ん中にしっかり腰を下ろし、社員と向き合いコミュニケーションをとると、当たり前ですが、コロナ禍にも関わらず業績は上向いてきました。牛乳宅配事業を始めとして、飲食店事業、整骨院・エステ事業、コンサルティング事業など数々の事業もリモートミーティングを実施しながら顕著に良くなってきました。過去を振り返り、東京、名古屋、九州、海外と飛び回っていた自分自身の仕事ぶりを、「いったい何をしていたのか」と反省中です。既存事業については、このままリモートミーティングをしっかりして、社員ひとり一人が成長すれば、たとえコロナ禍であろうとも、生き残れると確信しました。次の課題は次々控えている新規事業をどう成功させるかでした。こちらも同じように、プロジェクトリーダーを決めて、いつまでに何をどこまでやるか、予算はいくら、売り上げはいくら、それをいつまでにするかを考えて事業計画を作成しました。先ほど人は「変わること」が苦手だと書きましたが、もう一つ苦手なことが「考えること」です。普段から考える習慣がないと、考えること自体が苦手になります。何事も始める前に考え、優先順位決め、短期・中期・長期の仕事に置き換えて、自分ですぐできること(その日)・部下にさせること(2週間以内)・じっくり考えてやること(3カ月以内)に分けて取り組みます。始める前は考えて、考えて、考え抜く、いざ始めると早く、より早く、全力を持って早くを心がけ事業計画を進めていきます。いくつか新規事業が始まりますがそれはまた次の機会に書こうと思います。
②借りられるだけお金を借りておく③デジタル化に大きく舵を切る は次号とさせていただきます
2020/11/01 -
2020.10.01
本田健①
コロナ自粛生活により、私の日常も大きな変化をもたらすことになりました。移動のない、食事以外はどこへも行かない生活からか、毎夜夕食後に会社(社長室)へ行き、夜中まで仕事をすることが多くなりました。仕事と言っても、YouTubeや本からコロナ後の経済予測などの情報収集をしながら、あれこれ考える時間(主に自社のビジネスモデルの未来、すなわち自分自身の未来について向き合う習慣)のことです。そんな新しい習慣の中で、最も感銘する人物に出会いました。作家の本田健さんです。本田健氏は1965年8月2日神戸生まれ、自己啓発書作家・お金・幸せ・ライフワークがテーマ、代表作は「ユダヤ人大富豪の教え」です。
本田健氏のセルフイメージについての話にとても感銘したので紹介します。『セルフイメージを2ランクアップした自分になったつもりで生きることが大事。セルフイメージは成功したから良くなるというものではなくて、良いイメージを持った人が結果的に成功する。セルフイメージも無く偶然成功してしまうと、当然ながら一度手にした成功も簡単に手放してしまいます。自分を客観的に見つめて、そこから2ランクアップした自分とはどんな自分かを想像します。そこから今の自分の状態を考えてみます。例えば、自分が何か行動を起こす時、単なる仕事でやるのと、喜びや幸せを得られてやるのでは、行動のエネルギー値がぜんぜん違ってきます。絶えず最高の未来を感じて、自分がワクワクできているかどうか、そんな日常が、とても大事なことだと思います。私は日本人には良いセルフイメージを健全に持てている人は少ないように思います。こんな時期だからこそ、自分の正しいセルフイメージ、良いセルフイメージを持てるようになれたらいいと思います。「自分を褒めるべき時は褒めてもいいんだ」と変えてみてはどうでしょうか。結論は自分がどういうことをやっていきたいか?ってことですね。例えば、役職は平社員だけど係長のつもりで考えてみる。そうなると視点が自然と高くなります。飲食店を経営しているなら、お客さんが十人しか来てなくても、いつも百人来る意気込みでやる。そうなると、気持ち的には全然違うし、結果にも違いが出ると思います。パワフルに情熱的に気概を持ってやっていると現実が何年かで追いついてきます。絶えず最高の未来に、自分がワクワクできるかどうか、が大事なことだと思います。セルフイメージをランクアップして人生を変えるにはどうしたら良いのか。それには自分がどういう人物になりたいのかを考えてみます。そして、想定した人物になりきり、目の前のことをやっていくと現実が追いついてきます。その行為が私たちの器を作っています。器ができれば、それに現実という中身が入ってくる。今、自分に自信がなくても関係ないんです。自信がないからセルフイメージが高まらない、これは全然関係のないことだと思います。こういう生き方をしたいという自分の理想像をはっきりすることが最初のステップだと思います。もしかしたら月末の支払いができないことで、自分が良いセルフイメージを持てない人がいるとします。自分に対する疑いが出てきているはずです。だからこそ、最高の自分を信頼して欲しいのです。なぜかと言うと、私たちの今の問題を解決するには、2ランク上の自分じゃないと解決できないからなんです。今の問題と同じランクにいたら、今の問題を解決することはできません。私たちが2ランクアップしてエネルギー値だけでも大きくなったとしたら、その状態で今の問題を見た時に問題は簡単に解決できます。その問題よりも大きな人間になると、未来のエネルギーを先取りして、そのエネルギー値で現在を生きることができたら、どんな問題も恐れることはありません。』
この本田健氏のセルフイメージについての話を聞いた時に、セルフイメージをランクアップして人生を変えた歴史上の人物が思い浮かびました。その人物は豊臣秀吉でした。1576年、秀吉は北陸軍団長の柴田勝家の与力として北陸の地にいました。柴田勝家と意見が合わず、織田信長に報告せずに北陸から帰ってきてしまいます。信長の怒りは相当なもので、一時は切腹までさせられそうになりました。しかし、多くの助命嘆願に救われ、中国攻めの指令を言い渡されます。1582年、信長が明智光秀の謀反により命を落とすと、秀吉は、光秀を撃つべきと、毛利と講和をまとめ、中国大返しで戻り、見事に光秀を討ち果たします。その後、清洲会議で織田家中の主導権を握ります。1583年、宿敵勝家を滅ぼし、1590年、天下統一を果たします。信長の死後わずか8年でした。信長の訃報を聞いた時に、秀吉は、信長の家臣から、自らが天下人になるというセルフイメージを先取りして天下人になります。セルフイメージをランクアップさせて、見事に人生を変えた見本だと思います。私たちもコロナを機に人生を変えることのできるセルフイメージを持ちたいですね。
2020/10/01